苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

神学にふさわしい場所

 数年前の2月11日、木村公一牧師にお目にかかった。木村公一牧師とは、ブッシュによるイラク戦争開戦直前、イラクに「人間の盾」として立った人である。健全な精神と健全な肉体ということばが私の胸に浮かんだ。権力にも、富にも、名誉にも媚びず、立つべきところに立って、言うべきことをいい、なすべきことをなす人だった。しかも勇気がある。木村公一牧師の秘訣は、米国でなく、インドとインドネシアに身を置いて神学をしてこられたことにあるのだと思った。植民地とされた歴史を持ち、今も、独立国とはいいながら、なお軍事大国・経済大国の食い物にされている国の庶民たちのなかに身を置いて、木村牧師は聖書を読み、発言をしてこられた。大国におもねる政治家たち、金持ちたちの都合で、ふるさとをダムの底に沈められ、生活の場を失い命を奪われようとする人々の側に立って,聖書を読み、祈り、戦って来られたのである。
 313年、コンスタンティヌス大帝がキリスト教徒となってミラノ勅令が発せられると、教会の置かれた状況は劇変した。それまでローマの伝統主義者から迫害されていた教会は、今度は迫害者となった。神学は変質した。かつて、富む者たちがどのようにして救われるのかということは、キリスト教神学の難題だった。主イエスが「金持ちが天国に入るより、らくだが針の穴を通るほうがたやすい。」また、「貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものだ。」と言われたからである。しかし、皇帝がキリスト教徒となり、やがて司祭たちが貴族的階級になった後は、富や権力は神からの祝福のしるしと語られるようになった。また、帝国の迫害下にあった時代、何人ものキリスト者たちが兵役忌避の罪で処刑されたが、314年、皇帝回心の翌年のアルル教会会議では、兵役を拒否するキリスト者は破門とされるという決定がなされた。なんという変わり身の早さだろう。
 かつてブッシュ政権の後押しをする米国の教会や神学者・聖書学者たちを見て、ああいう国ではほんとうの神学はできないし、聖書は読めないと思った。富者の福音が語られるような場所で、聖書を正しく読み、祈り、語ることはとてもむずかしい。他国のことでなく、この日本にあっても、同様である。冷蔵庫に食糧をたくさん蓄えながら、「われらの日用の糧を今日も与えたまえ」と祈るのは白々しいし、信仰ゆえに石を投げられたことさえない私たちには、「義のために迫害されている者は幸いです」ということばは、ピンと来ない。
 主イエスは、地中海世界に広がる大ローマ帝国の、東の果ての一属州の片田舎ガリラヤで人となられ、異邦人のガリラヤで宣教を開始された。そのことには、深い意味があると思う。