この本、手に入れて読み始めました。ゲルハルト・キッテル、パウル・アルトハウス、エマヌエル・ヒルシュという、世界的に一流の聖書学者・神学者たちが、なぜナチスに加担する偽預言者になってしまったのか?
第一章の末尾にこんな一節があります。「私たちはヴァイマール期のドイツが直面した危機の複雑さを認識しなければならない。
さらに私たちは、合理主義も知的な能力も、キリスト教的価値も、キッテルやアルトハウスやヒルシュがヒトラーを支持することを阻止することができなかったことを認めなければならない。これは人々を当惑させる結論であり、もし私たちがヒトラーの現象が再現することを望まないならば、注意深い考察を必要とする結論である。」
少し解説します。「ヴァイマール期のドイツが直面した危機の複雑さ」というのは、近代的価値観が伝統的価値を崩壊させているということを意味しています。相対主義・多元主義・平等主義が伝統的な階級・価値・道徳を根こそぎにしつつあったということです。三人の著名な神学者たちは、それぞれ学風も個性も違いますが、こういう社会の変容に危機感をいだき、ドイツ的な伝統的価値を固守しようとしたという点では共通していました。
では、一方で、バルト、ボンヘッファーといった神学者たちはなぜヒトラーに心酔することがなかったのでしょうか? 著者は、ある意味、神学にいそしむ者たちをがっかりさせるような結論を提示します。バルトはスイス人であったからナチスのドイツ民族主義に共感しなかった、ボンヘッファーはイギリスの家族との絆や生きた国際経験があってコスモポリタン的な人生観をもっていたからであり、上記、ヒトラーを支持してしまった神学者たちは対照的に保守的で愛国主義的な家庭に生まれ広いコスモポリタン的視野をもつことがなかったからだ、と。
神学に期待する者にとっては、ちょっとがっかりさせられつつですが、著者の主張は本当なのだろうと思います。神学者はその理性をもって聖書を読み思考するわけですが、その理性は価値中立的で自律したものではなくて、ある価値によって方向づけられているからです。ナショナリストはナショナリスティックに聖書を読み、コスモポリタンはコスモポリタン的に聖書を読む。
小野静雄牧師が書かれた教会史を神学生時代に読んだことがあります。正確には覚えていませんが、明治以降、日本のキリスト教会は<欧米の宣教団からの自立が教会としての自律である>と誤認していたことが、<国家からの自律・神のことばへの服従こそ、本当の意味での教会の自律>であることを見過ごさせていたのだなあという感想を抱いたことです。外国宣教団からの自立を求めるキリスト教が、容易に、「日本的キリスト教」に陥ってしまった、ということです。
今、この国では、多元主義的・相対主義的・平等主義的な価値観が日本的な伝統的価値を破壊する世相に対する嘆きから、かつての日本、伝統的日本は「美しい国」だったという幻想が生じているように思います。そこに他民族に対するヘイトスピーチなどが生じてくる思潮の背景があるのでしょう。またナチズムにたいする憧れもそういうところに生じて、『アンネの日記』が破られると言った事件も起こっているのかもしれません。
そういう時代の空気のなかで、教会が国際性を大切にすることが、教会が真に教会であり続けるために必須なのだということを思います。「聖なる公同の教会」といいますが、その公同性の大事な一面は国際性なのです。教会が国家や民族を超えた公同的存在であることは、民族・国家を超えた教会としての助け合いや交流をすることによって具体化されます。そのことは、あの時代、ローマ・カトリック教会の神学者はほとんどナチスに取り込まれなかったことを見ても分かることです。