苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

主の召しに従って

      2009年6月28日 主日礼拝  荒籾実伝道師説教要旨
ヨハネが捕らえられたと聞いてイエスは、ガリラヤへ立ちのかれた。そしてナザレを去って、カペナウムに来て住まわれた。ゼブルンとナフタリとの境にある、湖のほとりの町である。これは、預言者イザヤを通して言われた事が、成就するためであった。すなわち、
『ゼブルンの地とナフタリの地、湖に向かう道、ヨルダンの向こう岸、異邦人のガリラヤ。
暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った。」
この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」
エスガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、ふたりの兄弟、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレをご覧になった。彼らは湖で網を打っていた。漁師だったからである。イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」彼らはすぐに網を捨てて従った。
そこからなお行かれると、イエスは、別のふたりの兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父ゼベダイといっしょに舟の中で網を繕っているのをご覧になり、ふたりをお呼びになった。彼らはすぐに舟も父も残してイエスに従った。」マタイ4:12-22

 主イエスは「異邦人のガリラヤ」で福音の宣教を始められた。ガリラヤ地方はかつてアッシリヤに滅ぼされて以来、混血が起こり、異教的習慣も入り込んで霊的な暗闇の中にあった。それで、純潔を誇る南のユダ地方の人々からガリラヤ人たちは軽んじられていた。しかし、主はその異邦人のガリラヤを宣教の出発点とすることによって、主の福音がやがてイスラエル民族のなかにとどまらず、世界のあらゆる民族に伝わることを暗示なさったのである。
 ガリラヤ宣教を始めた主は、まずガリラヤ湖のほとりで網を打つ漁師たちをお召しになった。主の念頭には、ご自分が地上の任務を終えて天に戻られたのちの後継者のことがその宣教の始まりからあった。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」と、主から伝道者としての召しを受けた彼らは、仕事を捨て、財産を捨て、ついには親までも後にして主にしたがった。福音の宣教者としての召しは、これほどまで絶対的なものである。その召しを受けた者はあのすばらしい真珠を見つけた人がすべてのものを売り払ってそれを買い求めたように、それまで価値があると思っていたものすべてを捨ててでも、「人間をとる漁師」すなわち伝道者になることを目指すものとなる。
 「わたしについて来なさい」と命じる主の召しは、また「わたしがまず模範を示すから、わたしのまねをせよ。わたしの足跡に自分の足を重ねてついて来なさい。」という意味である。主は「お前が行け。私はここにいる。」というのではなく、「わたしが君に先立っていく。だからついて来なさい。」とおっしゃる。それゆえ、私たちは日々、また時々刻々主イエスに信頼し、主の模範にならって生きよう。また、子にとって親が、信徒にとって牧師や役員は模範であるから、それぞれ悔い改めて模範にふさわしく生きたい。