私はパウロの書簡がどのように教会に受容されたのかに思いを馳せるならば、「一節説教」をするのは不適切ではないかと考えていま。初代教会のころ、ピリピの教会の一群れに「パウロ先生から手紙が届いたよ」ということになれば、礼拝で、短い手紙ならその全体が一気に朗読され聞かれたでしょう。同時に書写されて原本は他の群へと回覧されていく。また、長い手紙なら、内容で区切って朗読され聞かれたでしょう。同時に書写される。そして書写されたものを繰り返し繰り返し、朗読して味わって暗唱していく。素朴に「読書百遍意自ずから通ず」ということが大事なことだと思います。
だから私たちも、基本的には、そのようにパウロ書簡を読むのが適切な受容の仕方だと思うのです。つまり、一節主義でなく、ある程度の分量をまとめて読んで説き明かすということです。