苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

義認・聖化の罠と、子とすることによる解決

1.義認には、個人主義と、無律法主義という罠がある。

 義認において、人は聖なる審判者の前における被告として独りの罪ある自分を意識させられる。それは信仰の経験において重要なことであるが、義認からは教会(神の民)は見えてこないので、個人主義に傾くことになる。

 また義認は、ただキリストを信じる信仰によって義とされるという恵みの教理であるが、律法の行いをまったく根拠としないというと、人は律法などは無用であるとする無律法主義に陥ることがある。

2.聖化には、個人主義と、律法主義という罠がある。

 聖化におけるキリスト者の意識も、聖なる神の前にある単独者の自己というものである。ゆえに、聖化の教理からも教会共同体は見えてこない。また、自分の内面が汚れからきよめられることを聖化というならば、教会で時には煩わしいこともある人間関係の中に身を置くと、かえって内面が汚されると感じる場合もあり、むしろ独り書斎で聖書を読んでいるほうがよいという考えに傾くので、やはり聖化にも個人主義という罠がある。
 しかし、そもそも聖化の目指していることは単に自己の品性がもろもろの罪から浄化されるという消極面だけではなく、神を愛し隣人とくに主にある兄弟姉妹を愛する人となることなのであるから、個人主義に走ることは聖化と逆のことなのである。私たちは教会において赦したり赦されたり、愛したり愛されたりしながら、御霊の実を結んでいく。それが聖化なのである。

 また聖化が進んで汚れが減じていくにつれて、罪人が罪人であるままに義と認められたというあの有難さ、喜び、感謝が減って行き、自分の善き業を誇りとする律法主義に逆行することがある。恵みによって救われながら、行いによる救いに逆行するのである。

3.子とすることは、義認と聖化の矛盾を解決する。

 子とするとは神の家族に入れられることであるゆえ、それによって個人主義化を防ぎ、神が私の存在を喜んでいてくださるという事実の認識によって律法主義の罠を回避させ、相続人の使命感によって無律法主義の罠を回避させる。