苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

生も死もキリストのために

2011年7月24日 小海主日礼拝
ピリピ1:20−26



「君はなんのために生きているんですか?」「人生の目的はなんですか?」こんなふうに問われたら、あなたはどう答えるでしょうか。目先の目標はあるかもしれません。あの学校に入りたい、こういう職業につきたい、結婚したい、家を建てたい、というふうに。でも、それが人生の目的だろうかと考えると、そういうわけではない。じゃあ何のためにその学校に行くの、何のためにその職業につくの、何のために結婚するの?と問われたら答えにつまってしまいます。それらは人生の主な目的のための手段にすぎないでしょう。
今日、読んで味わおうとしている手紙の中で、この手紙の筆者パウロは「わたしにとって生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。」と言い切っています。全人生をかけてキリストのために生き、この命をキリストのために捨てても惜しくはないというのです。そういう心境とはどういうことなのか。私たちはどうなのか?そういう問いをもって、今日のみことばを味わって行きましょう。
さて、今、この手紙の筆者である使徒パウロは、未決囚という立場でローマにいます。そして皇帝の前での裁判に臨もうとしていました。いったい、どういう判決が出るかはわかりません。事実としては、彼を訴える人々がいうようにパウロエルサレムで悪事を働いたわけではありません。けれども、裁判の結果がどうなるのかは、皇帝とそのとりまきたちの胸三寸といった面が大きかったわけです。まっとうな裁きがなされて無罪放免になるという保証はありません。もしかすると、何からの政治的配慮から死刑になる可能性もありました。
ちなみに、パウロは紀元60−62年にローマにいたようで、このときの皇帝はあのネロ帝(54年10月13日―68年6月9日在位)でした。キリスト教迫害のきっかけとなったローマの大火は64年ですから、パウロがローマにいたころはまだネロ帝はまともだった頃であったのですが。
 私たちから見れば、生か死かというたいへん危機的な状況のなかにパウロはいたのです。しかし、パウロは揺るぐことのない態度でいることに気づきます。むしろピリピ教会への手紙におけるパウロの筆致は明るい喜びに輝いています。その秘訣をまなびましょう。

1.パウロにとって、人生の目的はキリストの栄光が現されること

 パウロの第一の秘訣は、その人生の目的がキリストの栄光が現されることだったという事実です。パウロは言います。「1:20 それは私の切なる祈りと願いにかなっています。すなわち、どんな場合にも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにも死ぬにも私の身によって、キリストがあがめられることです。
1:21 私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です。
1:22 しかし、もしこの肉体のいのちが続くとしたら、私の働きが豊かな実を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいのか、私にはわかりません。」
 キリストのために地上のいのちを永らえていくのがよいのか、あるいは、キリストのために殉教するのがよいのか、自分としてはどちらがよいのかよくわからない。パウロにとっては、どちらも意義のあることでした。
 今日、「いのちが一番たいせつ」「人命尊重」というのがこの世の多くの人々の基本的な価値観ではないかと思うのです。とにかく長生きするために、させるために、本人が望むか望まないかに関係なく、あらゆることをするというのが、この世の考え方であるように思います。最近ようやく、クオリティ・オブ・ライフQOLということが言われるようになって、なんでもかんでも生命が維持されればよいというわけではなく、長さとともに質がたいせつなんだとされるようになりました。植物状態で3ヶ月延命と、家族との交流ができる状態の1ヶ月延命とを選択することを問われたら、後者の生の質の高い1か月を選ぶという考え方です。
 パウロの場合はどうでしょう? パウロにとって、「生きることはキリスト、死ぬことも益」でした。パウロにとって一番大事なことはこの世で長生きすることではありません。やっぱり質が大事です。では、どのような人生が高品質の人生だというのでしょうか。それは、自己満足・自己実現というふうなことではなく、自分の人生を通して、キリストの御栄えが現されることでした。自分が生きることを通してであれ、死ぬことを通してであれ、キリストの御栄えが現されるならば、それがパウロにとっての最高品質の人生でした。
 私たちがキリスト者であるならば、同じ告白を持っているはずです。
「問い 人の主な目的はなんであるか。
答え 人の主な目的は、神の栄光を現し、神を永遠に喜ぶことである。」
「2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」

2.パウロにとって、死は永遠の生への門である

 主イエスのために殉教すべきなのか、それともこの世に生き残って主イエスの福音のため教会のために奉仕を続けるべきなのか。裁判を前に、パウロは二つのものの間の板ばさみとなっていました。「1:23 私は、その二つのものの間に板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。」
 しかし、板ばさみになりながらも、パウロは自分の本音をここで漏らしています。彼の本音は「世を去ってキリストとともにいることのほうがはるかにまさっている」というのです。パウロは人類の最後の敵と呼ばれる恐怖の大王である死からとうに解放されていました。パウロにとって、肉体の死とは、世を去ってキリストとともにいることなのです。パウロにとってばかりでなく、イエスさまをわが主わが救い主として信じているみなさんにとっても同じことです。

(1)死の恐れからの解放
 人は死に対して本能的に恐怖を抱いています。死というものが、ある人たちが主張するように、本当に単に「無に帰すること」「土に帰ること」にすぎないならば、これほど死が恐れられていることは説明できないでしょう。
 聖書は、人が死をこわがるのは、死には罪というとげがあるからだと教えています。「死のとげは罪であり、罪の力は律法です。」(1コリント15:56)ハチとチョウというとどちらが怖いでしょうか。無論、ハチでしょう。なぜか。ハチにはとげがあるからです。死はなぜ怖いのか。それは死にはとげがあるからです。もし蜂からとげを取り去ってしまったらちっとも怖くありません。死からとげを取り去ることができたら、私たちは愛する人たちとの別れという悲しみはあるにしても、死そのものの恐怖からは解放されることができます。
 死のとげとは罪です。神の前に有罪状態であるならば、肉体を去って後、神の前に出て、その罪をあばかれ、かつさばかれて、神の怒りをこうむらなければなりません。神様は私たちの心の思いと、私たちのことばと、私たちの行動をことごとく記録しておられて、それに基づいてさばきを行われます。だから実際、罪こそ恐るべきとげなのです。こわがって当然のことです。
 しかし、主イエスは、私たちの死にくっついているとげを取り去ってくださいます。主イエスは、あの十字架の上で、私の罪、あなたの罪のとげを一身に背負われることによって、私たちの死からとげを取り去ってくださいました。とげを抜かれた蜂が怖くないように、罪というとげを取り去られた死は怖くなくなってしまいます。
 パウロは、真面目人間として生きてきましたが、あるときそういう自分にも抜きがたいむさぼりの罪があることを認めざるを得なくなりました。しかし、そのときパウロはイエス様を信じるならば、神様はイエス様の十字架の死の苦しみに免じて、あなたの罪を赦そうと宣言してくださったことを知ったのです。だから罪というとげは、死から抜き去られてしまったのです。それでパウロは死の恐怖から解放されていました。

(2)至福への通過点
 それどころではありません。パウロにとって、死は怖くないだけでなく、すばらしい栄光への通過点にされました。死の向こうに愛するイエス様とともに生きる人生が待っているからです。
 イエス様は、私たち信じる者の罪をゆるし、かつ、罪の性質を抜き去ってくださいます。地上にあっては古いからだの中に住んでいるので、なお罪を好む肉的な性質との戦いを経験しているのですが、古いからだを去ってイエス様のもとに行くときには、完全に罪の性質から解放されることになります。そうして、イエス様のいらっしゃるところに霊の状態で連れて行っていただけるのです。これは、復活の日に新しい天と新しい地に住む新しいからだをいただくときが究極の完成なので、神学では中間状態と呼ばれるのですが、実にすばらしいことです。
そのときの平安と喜びはどれほどのものでしょうか。パウロが、「私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。」というのは実にもっともなことなのです。
 パウロはイエス様を信じて罪ゆるされたとはいえ、この地上にあっては、さまざまな苦闘の中にありました。彼ほどキリストのために、苦難を経験した伝道者はいないのではないでしょうか。「11:23 彼らはキリストのしもべですか。私は狂気したように言いますが、私は彼ら以上にそうなのです。私の労苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも多く、また、むち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。
11:24 ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、 11:25 むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。 11:26 幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、 11:27 労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。
11:28 このような外から来ることのほかに、日々私に押しかかるすべての教会への心づかいがあります。 11:29 だれかが弱くて、私が弱くない、ということがあるでしょうか。だれかがつまずいていて、私の心が激しく痛まないでおられましょうか。」(2コリント11:23後半―29)
 この世を去って、イエス様の御許に行くならば、こうしたすべての苦しみから解放されるのです。なんとすばらしいこと。そうして、イエス様の御許では、栄光の義の冠が待っていて、「よくやったねパウロ」とイエス様が彼を抱きしめてくださるのですから、この世にあるより、イエス様のもとに行くほうがはるかに勝っているというのは当然のことでした。

3.パウロにとって、地上にも大事な任務があった

 自分の楽しさとか快適さとか喜びとかいうことからいうならば、パウロは圧倒的に世を去ってイエス様のところに行くほうがよかったのです。けれども、パウロの生きる目的は自分の快適さや喜びではありません。彼の生きる目的は、キリストの御栄えが現されること、より多くの人たちがイエス様をあがめるようになることです。
 そのことを考えるならば、パウロはなおその肉体に留まって、主イエスの教会のために働くことが必要だと考えるのです。
「 1:24 しかし、この肉体にとどまることが、あなたがたのためには、もっと必要です。
1:25 私はこのことを確信していますから、あなたがたの信仰の進歩と喜びとのために、私が生きながらえて、あなたがたすべてといっしょにいるようになることを知っています。
1:26 そうなれば、私はもう一度あなたがたのところに行けるので、私のことに関するあなたがたの誇りは、キリスト・イエスにあって増し加わるでしょう。」
 パウロは、まだ地上において自分の任務が残っていることをよく知っていました。それは彼が諸教会の兄弟姉妹の「信仰の進歩と喜び」のために、必要とされているということです。パウロは裁判で皇帝の前にキリストについて証言をして、伝道を終えたならば、無罪放免となって、また地中海世界を伝道するでしょう。
 26節に記されているように、聖書に記録はないのですが、パウロはまたピリピの教会へと行って、励ましを与えることができることでしょう。おそらくこの後、地の果てであるイスパニアにまで伝道をしに行ったといわれてもいます。
さらに、神様はパウロに手紙を用いて伝道をし、また、手紙を用いて教会を導くという特殊な能力と務めをお与えになりました。事実、パウロの手紙によって、キリスト教会は2000年間養われてきたのです。アウグスティヌスマルティン・ルターパウロの書いた書簡によって、キリストとの出会いを経験し、キリスト教会と人類の歴史において、大きな足跡を遺すことになりました。
パウロはこのようにして、地上において教会のために働き、キリストの御栄を現わしました。そして、その務めを終えて後、紀元64年頃、ローマにおいて殉教をし、イエス様のもとに行ったのでした。
まさに「私にとって生きることはキリスト、死ぬこともまた益」でした。

むすび
 小なりとはいえ、私たちもまたパウロと同じようにキリストの僕です。
 私たちの人生の目的は、自分の楽しみや、自分の安楽さや自分の名誉、自己満足・自己実現ではありません。私たちの人生の目的は、キリストの御栄えがこの私たちのからだを通して明らかにされることです。
 そうして、私たちはすでにキリストにあって罪ゆるされ、死のとげを抜き去られた者として、生きるにしても、死ぬにしても、ただキリストの御栄えのために生きていく者なのです。
 パウロのような伝道者ではなくても、私たちの人生がキリストのものであることには何の違いもありません。ここに、生と死を超越して揺るぐことのない、喜びと生きる甲斐、死ぬ甲斐のある人生の秘訣があります。