コロサイ教会への手紙は、パウロ獄中書簡のひとつ。岩波の『新約聖書』では学者たちが「パウロの名による書簡」と銘打っているもののひとつである。教会のS兄が笑いながら言った。「こんな学者さんたちの見方からすれば、先生のブログには複数の記者がいるということになってしまいますね。」と。リベラルな聖書学者たちは、聖書の各書を文体・用語・議論の展開法、また思想内容などの違いを理由に、「これはパウロの真筆だ。」「これはパウロの名を用いているが他の記者のものだ。」などと分類するからである。
S兄が言われるように、たかが私程度の物書きでさえ、時と場合によって何通りかの文体と用語を用いて文章は意識的に書き分けている。それは文章の内容と、その文章の読まれるTPOのちがいと、想定するおもな読者と、そのときの気分によってである。論文は論文らしく、手紙は手紙らしく、詩は詩らしく、説教は説教らしく、伝道新聞は伝道新聞らしく書くし、同じ相手でもときと場合によって文体は変えるものである。料理と同じだ。
文体だけでなく、ある人たちからすれば、思想内容だって一見すると「同じ人が書いたの?」と思われることも書くこともある。思想というものは一つのからだであって、手の部分も、足の部分も、頭の部分もあって、手と足と頭とは一見すると似ても似つかぬものなのだが、ひとつのからだに属している。リベラルな聖書学者たちが、文体や用語や思想内容から聖書記者の真筆を疑うのは、彼らが論文しか書かない学者だからかもしれない。
もうひとつ常識的に考えて、 「神のみこころによる、キリスト・イエスの使徒パウロ、および兄弟テモテから、コロサイにいる聖徒たちで、キリストにある忠実な兄弟たちへ。」と書いた記者がパウロでないとすると、この「コロサイ書」の記者はうそつきであるということである。しかも、神を畏れぬ嘘つきである。他人の名を騙って手紙を書くというのは、いうまでもなく犯罪行為である。そんな手紙を読む価値がどこにあるのだろう。平然と「パウロの名による書簡」などと言うことのできる偉い学者さんたちが、人の論文を剽窃して自分の論文として出して良心の呵責を感じないような人たちであるとは、あまり思いたくないのだが、えてして、人は他人を量る量りによって自分がどの程度の人間であるかを暴露してしまうものなのだ。・・・そこまでいうと言いすぎなのだろうが、おそらくは、リベラルな聖書学者のムラのなかで「コロサイ書はパウロの真筆だ」と叫ぶことは、原発ムラにいて「原発は危険だ」と叫ぶのと同じくらいむずかしく、そのムラの中では「非常識な」ことなのであろう。