苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

満ち足りる秘訣

ピリピ4:10-12
2011年10月30日 小海主日礼拝
  (けさの散歩道。唐松のもみじがきれいです。)



序 パウロとピリピ教会の愛の交わり
「4:10 私のことを心配してくれるあなたがたの心が、このたびついによみがえって来たことを、私は主にあって非常に喜びました。あなたがたは心にかけてはいたのですが、機会がなかったのです。」
 いよいよピリピ教会の兄弟姉妹への手紙も終盤に近づいて、パウロは改めて彼らへの感謝と喜びを表します。そう、ここにもまた「喜びます」という言葉が出ていますね。まことに「喜びの手紙」です。
 パウロが喜んでいるのは、しばらく途絶えていたピリピからのサポートが届いたことでした。エパフロデトが派遣されたことによって、彼らの獄中のパウロに対する愛の深さ豊かさが身に沁みて感じられたからでした。多くの人々は、パウロが逮捕されたということで、パウロとは関わろうとしなくなりましたが、ピリピの人々のパウロに対する愛と信頼は揺るぐことがなかったのです。
 そうして、その愛の表れとして、エパフロデトはピリピの教会の兄弟姉妹から託されたお金とか着物とかもろもろの心づくしの品々を持ってきたのでした。お金にしてもいろいろな品物にしても、それを見ると、あの兄弟、あの姉妹の顔が浮かんでくるようです。
 たとえ顔を見交わすことができない状況であっても、このような麗しい愛の交流がピリピ教会と伝道者パウロの間にはあったのでした。

1 貧しさの中で満ち足りる

 とはいえ、パウロは自分が乏しくて困り果てていたということではないのですよ、とキリストにあって満ち足りる秘訣について、ここに披瀝しています。まず、貧しさの中で満ち足りることについて。
「4:11 乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。 4:12 私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。4:13 私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」
 今、パウロは獄中にあって不自由な生活を強いられています。けれども、彼のうちにある喜びは絶えることがありませんでした。過去を見れば、パウロは何度もまあたいへんな目に遭ってきました。第二コリントでは次のように言っています。
「11:23 彼らはキリストのしもべですか。私は狂気したように言いますが、私は彼ら以上にそうなのです。私の労苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも多く、また、むち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。
11:24 ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、 11:25 むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。 11:26 幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、 11:27 労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。」第二コリント11:23-27
 今日までパウロのイエス様の弟子としての歩みは実に波乱万丈のものでした。ユダヤ最高議会のリーダーともなりえる若手として活躍していた時代もありました。その絶頂のときにキリスト教会を迫害し、そのさなかにイエス様と出会って彼は回心したのでした。イエス様を知ったとき、それまでの平穏無事で将来の立身出世を約束された生活は、パウロにとってちりあくたに過ぎないものになりました。
 そして、「狐にも穴はあり、鳥に巣はあるが、人の子には枕するところもない」とおっしゃったイエス様の弟子として生きてきたのでした。パウロには格別厳しい福音宣教のための戦いの日々でした。イエス様に言われたとおり、パウロは自分の十字架を日々背負って、乏しい中を歩んできたのです。しかし、パウロはそういう中で満ち足りる秘訣を学んだのでした。                               
 パウロの経験とは比べようもないほど小さな経験ですが、お分かちしましょうか。・・・先日、私の友人の牧師の奥さんからの話で、「そういえば、渉君がうちに初めて来たとき、ピーターパンの格好をしていて、すごくインパクトがあったわ。」とおっしゃっていました。長男わたるが3歳のころだと思います。当時、練馬の開拓伝道に毛がはえたような教会で宣教師と一緒に伝道していましたが、借金をたくさんして会堂を手に入れたものですから、教会財政は逼迫していて、牧師家庭にまで回ってくるものが、率直にいってわずかでした。周囲のバブルは別世界の話でした。
わたるの誕生日が近くなるのですが、おもちゃ屋さんに行って買うということはできませんでした。で、誕生日が近づいてくるので、どうしようかと夫婦で考えて、そうだ、何枚か緑のフェルトがあるからピーターパンの服をと剣をフェルトで作ってやろうということになりました。家内はそのコスチューム、私はピーターパンと戦ってチャンバラの相手をしないといけないので、やわらかにウレタンのような芯を入れてフェルトで剣を縫って作りました。そうして出来上がったのでした。
貧しければ貧しいなりの工夫をして、それで満ち足りることができるものです。要はイエス様に結ばれて感謝する心があれば、です。

2 豊かさの中に満ち足りる

 ですが、もう一つ注目したいのは、パウロが「乏しいこと、貧しいこと、飢えることに満ち足りる秘訣を持っている」というだけでなく、「4:12 私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。」と言っていることです。「豊かさの中で満ち足りる、飽くことに満ち足りる、富むことに満ち足りる」というのです。これはどういうことでしょうか。豊かであれば、満ち足りるのはあたりまえではないでしょうか。
 そうでもないと思います。豊かさの中で満ち足りるということについて、二通りの難しさがあると思います。
 ある人が若いとき町工場を起こして、奥さんは会計を取り仕切って、一生懸命に働きました。一生懸命にやった甲斐があってだんだん羽振りが良くなってきたころから、このだんなさんは飲み屋を歩くようになりました。そうして、子どもたちがもう独立しようというような年齢のころには、女などを作るようになってしまいました。そのことを知った奥さんはたいへんショックを受けてしまった。・・・・そんな出来事は、どこにでも転がっています。若くて貧しかったときのほうが良かった。自由になるお金が手に入ったころからだんなさんはおかしくなってしまったというのです。
 だいたいお金というものは、100万を目標に立てても、100万円たまったら、1000万円欲しくなり、1000万円たまったら1億円欲しくなり・・・と満ち足りることのないもの、きりがないものです。それが偶像になってしまうのです。


 豊かさの中で満ち足りることの、もう一つのむずかしさ。昔、「ホワッツ・マイケル」という猫を主人公とした漫画がありました。それに新之助という一匹の白い犬が出てくるのです。新之助は、いつも残飯をもらってご主人の古いサンダルをしゃぶっているのですが、あるとき、飼い主が、猫と待遇が違いすぎてちょっとかわいそうかなと思って、奮発して大きな骨を上げました。すると、新之助は泪を浮かべて、ぴょんぴょんはねてフガフガ言っていて、やっと口にくわえたと思ったら、全然食べないで土に埋めて、いつものように飼い主のサンダルをしゃぶっているのです。乏しさには耐えられても、豊かさに耐えられないのでした。貧乏性なんですね。
 昔、ある牧師先生が、結婚記念日に奥さんを東京に呼び出してレストランでごちそうを食べようとしたそうです。レストラン街を歩いたのですが、奥さんがいろいろ見た挙句、「ラーメンと餃子でいいわ」と言ったのだそうです。いつも節約生活をしているからですねえ。
 神様というお方は気前のよいお方でいらっしゃるのであり、神様は誰よりもお金持ちで、この地球の所有者でいらっしゃいますから、神様の懐は大丈夫かなあと心配する必要はありません。天の父は、その子どもたちである私たちに人生を楽しみなさいといって、時には豊かさを提供してくださっていることを忘れないでいたいと思います。干からびた禁欲主義は、聖書に提供されている福音によって救われた生活とは違うのです。
乏しいときは神様がくださった工夫して楽しむためのチャンスであり、ときに与えられる豊かなときは、神様がくださったごほうびとして楽しめばよいのです。どちらも、感謝、どちらも満ち足りるときです。

3  支え支えられて満ち足りる

 さて、パウロは話題を、ピリピ教会からエパフロデトが携えてきた贈り物にかんする感謝に戻していいます。
「4:14 それにしても、あなたがたは、よく私と困難を分け合ってくれました。 4:15 ピリピの人たち。あなたがたも知っているとおり、私が福音を宣べ伝え始めたころ、マケドニヤを離れて行ったときには、私の働きのために、物をやり取りしてくれた教会は、あなたがたのほかには一つもありませんでした。 4:16 テサロニケにいたときでさえ、あなたがたは一度ならず二度までも物を送って、私の乏しさを補ってくれました。」
 ピリピ教会はこのように遠くで伝道しているパウロをずっと支え続けてきました。パウロが開拓した教会であったとはいえ、彼がピリピに留まっていたのはそれほど長い期間ではありませんから、パウロの顔や声を直接に知っている人はわずかであったろうと思います。けれども、そういう人間的なつながりを超えて彼らはパウロを愛しかつ支援し、そのことによって世界宣教に参加したのでした。

そして、パウロはひとつ大事なことを言っています。「4:17 私は贈り物を求めているのではありません。私のほしいのは、あなたがたの収支を償わせて余りある霊的祝福なのです。 4:18 私は、すべての物を受けて、満ちあふれています。エパフロデトからあなたがたの贈り物を受けたので、満ち足りています。それは香ばしいかおりであって、神が喜んで受けてくださる供え物です。」
 「霊的祝福」とは、神様がピリピ教会のパウロに対するサポートに応えて、ピリピの兄弟姉妹に授けてくださるものです。というのは、ピリピ教会がエパフロデトにパウロのもとに持って行かせた贈り物は、イエス様にささげた供え物とみなされて神様がそれを喜んで受け取ってくださったからです。イエス様もおっしゃったでしょう。「9:41 あなたがたがキリストの弟子だからというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれる人は、決して報いを失うことはありません。これは確かなことです。」(マルコ9:41)
 ピリピ教会は、パウロがイエス・キリスト様の弟子だからというので、パウロをサポートしました。ですから、神様は彼らのパウロへのサポートを神への供え物として喜んで受けてくださったのであり、彼らに天からの霊的祝福をくださるのです。「 4:19 また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。 4:20 どうか、私たちの父なる神に御栄えがとこしえにありますように。アーメン。」
 このようにして、ピリピ教会の兄弟姉妹によってサポートを受けることによって、パウロは物質的にも満ちたり、心も喜びで満ち足りました。そして、パウロを愛をもってサポートしたピリピ教会の兄弟姉妹は、その働きを神様が御前にささげられた供えものとして受け取ってくださいましたので、キリストにあって天からの霊的な祝福によって満ち足りたのです。

結び
 こうして私たちは、キリストにあって乏しくても満ちたり、キリストにあって豊かさの中でも満ちたり、また、キリストにあって乏しい人を助けて満ちたり、キリストにあって受けて満ち足りるのです。