苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ひめゆり平和記念資料館とアブチラガマ

 沖縄を訪れるのは2回目ですが、前回はホテルと会議をする教会堂を往復しただけでした。今回の聖会のプログラムはゆったりしていて、時間的余裕がありました。そこで林先生にお願いして、二日目の午前中、ひめゆり平和祈念資料館とアブチラガマに連れて行ってもらいました。
 まず印象的だったのは、資料館にはいった玄関ホールに大きく拡大されたひめゆり隊の生徒たちの屈託のない笑顔と彼女たちに取り囲まれた教師の集合写真でした。こんな若い娘たちが、動員されて暗くて不潔で危険なガマの中の野戦病院に配属されて、四六時中呻き叫んでいる傷病兵たちのために、鉄砲玉の雨が降る中危険を冒して食料を運び、兵士たちのケガに取りついたウジを取り、麻酔無しの手術の手伝いをし、糞尿の始末のためにまた弾雨をかいくぐる奉仕をし、遺体埋葬の作業をしました。

 ところが敗色がいよいよ濃くなると、牛島司令官は自殺します。そして言い残したのは、「諸子よ、生きて虜囚の辱めを受くることなく、悠久の大義に生くべし」ということばでした。 責任者として米軍に対して降伏してから自決するならば、理解できますが、放り出してしまったのです。放り出す癖に最後まで戦えと命令をして死ぬのですから、とんでもないことです。残された者たちは、牛島の言い残した命令に縛られました。この後、軍は「解散命令」を出しました。女学生たちは戸惑いました。当時は、「米兵は鬼畜であるから、男がつかまれば虐殺され、女が捕まれば凌辱の上で殺される」と繰り返し教えられていましたから、投降するという選択肢がありません。教師の指導のもと集団自決するガマもあったそうですが、このガマでは逃げられる者は北へ逃げよということで、病気やけがをした者以外は北へ向かって逃げました。結果的には真っ暗なガマに残された傷病者たちが助かり、外に出て逃げた人々のほとんどは銃弾や爆撃の犠牲になったそうです。
 戦争というものの、恐ろしさ、愚かしさをよくよく思わされました。 

 

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