苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

キリスト者の光栄

           使徒5:33-42
           2010年1月24日 小海主日礼拝

 「人にしたがうよりも、神にしたがうべきです。」使徒たちはこのように断言して、イエスこそ救い主であり、十字架に死んでよみがえり、いまや天の父の右にいまして世を治めておられるのだと話しました。そして「今や悔い改めてイエスを信ずるときだ。」と結論したのです。福音の宣言に対してはいつも、三つの種類の反応が起こっています。
 第一の反応は大祭司たちのもので、怒り狂ったということです。
 第二の反応は大学者ガマリエルの反応で、様子を静観しようというものでした。
 そして、福音に対する第三の反応は使徒たち自身の行動で、迫害をも喜び甘んじて受けて伝道をしようとするものでした。

1. 怒り狂った大祭司たち

 まず、大祭司たちの反応です。使徒たちのことばを聞いた大祭司たちは、自らの過ちを認めて悔い改めるどころか怒り狂いました。大祭司たちこそナザレのイエスを磔にした張本人でした。彼らの怒りは、自分たちの祭司としての面子が丸つぶれにされたということのゆえでしょう。「彼らはこれを聞いて怒り狂い、使徒たちを殺そうと計った。」(5:33)
 みことばの真理を土台とし、みことばの真理を保ち、これを教えることこそ祭司と律法学者たちの役割でした。祭司と律法学者たちは、自分たちはそれにふさわしい働きをしているものであると自負していました。ところが、使徒たちは、<父祖アブラハム以来ずっと待望してきて、ついに神が歴史の中に遣わしてくださったメシヤを、祭司であるあなたがたが理解することができず殺してしまったのは、大失態である>と指摘したのです。祭司たちは非を認めるどころか激怒しました。
 この種の怒りは、主イエスが伝道を始めた当初から起こったことでした。衝突した問題は、安息日の理解をめぐるものでした。主イエスは律法の本来の意義に立ち返って、<安息日とは「神様の前に兄弟姉妹、しもべたち、家畜ともどもに休んで、神様を礼拝し、兄弟姉妹を慰め励ましあう」という目的のために仕事を休む日である>という原則にたって行動されました。つまり、神を愛し、隣人を自分自身のように愛するという人間が造られた本来の目的を特に行なう日が安息日ですから、主イエス安息日にともに礼拝をささげ、そしてともに礼拝をささげた兄弟姉妹のなかで病んだ人がいると、その場でいやしを行なわれたのです。
 ところが、当時、律法学者たちは、安息日とは「仕事をしない」という規則を厳守をすることによって、神の前に点数をかせぐための日であると誤解していました。そのために「してはならない仕事」にあたる行いの千を越えるリストを作り上げていました。その中に医療行為を行なうこともありましたから、彼らは「イエス安息日律法を破った」と判断しました。そしてイエスを非難しましたが、かえって「安息日にしてよいのは良いことなのか、悪いことなのか。生かすことなのか、殺すことなのか。」とイエスに論破されてしまったのです。彼らは律法の専門家としての面子がつぶされたと怒り、ただちにイエスを殺すことを計画し始めたと福音書には記されています。
 私たちは、真理の前にいつも謙虚でなければなりません。立場があればあるほど注意しなければなりません。律法学者と祭司といえば、今日でいう神学者と牧師ですから、私自身、まず注意しなければなりません。一般的に、人は偉くなるほどに、よほど謙虚になって聴く耳を持ち続けていなければ、周囲に本当のことを言ってくれる人が減ってくる場合が多いからです。よほど注意していないと、裸の王様になってしまいます。
 私たちは真理の前に謙虚であることが大事です。相手が若かろうと、幼かろうと、学があろうがなかろうが、もしかすると、神がこの人をとおして私に真理の洞察を与えようとしていらっしゃるかもしれないと聞き耳を立てる謙虚さです。
 
2. ガマリエル―――まるで評論家のように

 残念ながら、サンヒドリンのほとんどの議員はガリラヤの大工、ガリラヤの漁師たち、律法に関する素人たちに、自分たちの面子をつぶされたと怒りくるいました。けれども、このユダヤ最高議会サンヒドリンにも人物がおりました。律法学者ガマリエルです。ガマリエルは当時最高の学者で、彼自身はパリサイ派でしたが、パリサイ派サドカイ派といった立場を問わず尊敬を集めていた本物の大学者でありました。当時、もっとも人気を集めていたのはパリサイ派ヒルレル学派でしたが、そのヒルレルの孫として学統を継いでいたのがガマリエルでした。このガマリエルは使徒パウロの先生でした。普通のユダヤ教教師はラビと呼ばれますが、特に偉大な先生はラバンと呼ばれ、ラバンは今日に至るまでユダヤ史上に数名しかいないそうです。このガマリエルはそうしたラバンの一人なのです。
ガマリエルは、他の怒り狂う祭司・学者たちと一味ちがう行動と発言をしました。
「ところが、すべての人に尊敬されている律法学者で、ガマリエルというパリサイ人が議会の中に立ち、使徒たちをしばらく外に出させるように命じた。」(5:34)
 このようにして、まず人々のカーッとなってしまった頭を冷やそうとします。さすがですね。クールな頭でなければ、正しい判断はできないというわけです。そして、彼はおもむろに持論を述べ始めます。ガマリエルは議員たちに近年起こった二つの運動について思い起こさせます。議会はシーンと静まり返りました。あの大学者ガマリエルさんはどういう知恵あることばを語ってくれるだろうかとみな耳をそばだてます。
イスラエルの皆さん。この人々をどう扱うか、よく気をつけてください。というのは、先ごろチゥダが立ち上がって、自分を何か偉い者のように言い、彼に従った男の数が四百人ほどありましたが、結局、彼は殺され、従った者はみな散らされて、あとかたもなくなりました。その後、人口調査のとき、ガリラヤ人ユダが立ち上がり、民衆をそそのかして反乱を起こしましたが、自分は滅び、従った者たちもみな散らされてしまいました。」(5:35-37)
 ガマリエルは、チウダの反乱とガリラヤ人ユダの反乱を取り上げて、神から出ていない人間がかってに始めたメシヤ運動ならば、放っておいたら遅かれ早かれ自滅してしまうものである。だから、今回のイエスの運動も、もし人から出たものであるならば、自滅するだろうし、もし神から出た運動であれば自分たちは神に敵対する者となってしまうでしょう、と論じます。
「そこで今、あなたがたに申したいのです。あの人たちから手を引き、放っておきなさい。もし、その計画や行動が人から出たものならば、自滅してしまうでしょう。しかし、もし神から出たものならば、あなたがたには彼らを滅ぼすことはできないでしょう。もしかすれば、あなたがたは神に敵対する者になってしまいます。」(5:38,39)
  実際、その後の歴史は何を物語っているのでしょうか。キリストの宣教は亡ぼされるどころか、2000年にわたって世界中のありとあらゆる民族・国語にのべつたえられてきました。歴史を貫いて、世界には「聖なる公同の教会」が形成されてきました。ガマリエルの説によれば、キリストの宣教は神から出たものだったからです。さすがにガマリエル、大学者です。

 では、その学説はよしとして、神様の前におけるひとりの人間として、ガマリエルがとった態度は神の前に正しかったということができるのでしょうか。たしかにガマリエルは頭脳明晰な大学者でした。品性においても立派でした。もし主イエスがガマリエルと対論したならば、きっと「あなたは真理から遠くはない」とおっしゃったでしょう。けれども、ガマリエルは真理の近くにいながら、真理を獲得することができなかったのです。それは、このキリストにある真理というものは、評論家が他人事についてある判断をくだすようなわけにはいかないからです。キリストにある真理は、それを聞く人にいのちがけで服従することを要求する真理であるからです。
 ガマリエルは、まるで自分が第三者的に安全地帯にいられる評論家のようなものの言い方をしています。「もしかすれば、あなたがたは神に敵対する者になってしまいます。」という言い方は、まさにそうでしょう。「あなたがたは」と言いますが、ガマリエル自身はどうなのでしょうか。ことキリストの真理の前では、中立の立場にいることのできる人間などただのひとりもいないのです。「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」(使徒4:12)実際には、イエスにつかない者はイエスの敵なのです。イエス・キリストの真理は、それを聞いたら、それを信じて従うか、あるいは、信じないで敵対するかの二者択一の真理なのです。中立の立場はありません。「私はイエス・キリストを信じはしないけれど、特段、悪意を持つわけではなく、中立だ」と思っている人は、実は、イエスに敵対しているのです。

3.イエスの御名のゆえに

 そして、第三の立場。使徒たちの取った行動です。二つのことが記されています。
使徒たちを呼んで、彼らをむちで打ち、イエスの名によって語ってはならないと言い渡したうえで釈放した。そこで、使徒たちは、御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜びながら、議会から出て行った。」(5:40,41)
 一つ目は、「御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜んだ」というのです。イエス様の御名のためにはずかしめを受けることは光栄なことだと、彼らは喜んだのです。今朝も私たちは山上の祝福をともに朗読しました。
「 わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです。喜びなさい。喜びおどりなさい。」
 このような喜びを私たちは知っているでしょうか。神は私たちにキリストのために楽しみばかりではなく、キリストのための苦しみをも賜ったのです。いや、私よりもむしろ皆さんのほうが、この苦しみと喜びをよく知っていらっしゃるかもしれません。みなさんがたひとりひとりはこの信州南佐久という古い因習のある地域にあって、イエス・キリストの福音を聞き、決断して洗礼を受けキリスト者となられました。大きな仏壇と神棚がある家の中から、まずはただひとり「私はイエス様を信じます。」と決心して、勇気と信仰をもって踏み出されたみなさんです。そのことによって、侮辱を受けたという経験をされたのは、一度や二度のことではないでしょう。今も、そういう戦いの中に日々歩んでいらっしゃるかもしれません。それは辛いことです。しかし、それは実にすばらしい特権です。喜び躍るべきことです。天の御国はあなたがたのものだからです。主イエスの御名のゆえに辱めを受けることがあるなら、キリスト者として神様の前にこれにまさる光栄はありません。

 使徒たちのもう一つの行動、それは、サンヒドリンのおびやかしにも屈することなく伝道を続けたことです。「そして、毎日、宮や家々で教え、イエスがキリストであることを宣べ伝え続けた。」(5:42)
 「毎日、宮や家家で」と書いてあります。今でいえば、教会堂においてみことばを語るばかりか、ウィークデーも毎日、あちらの家庭集会、こちらの家庭集会でイエスがキリストであることを宣べ伝え続けたのです。福音の宣教は、雨が降ろうが、雪が降ろうが、槍が降ろうが、火が降ろうが、国がこれを禁止しようが、主イエスの再臨の日まで続けていくものです。キリストの十字架の福音は、主イエスがご自分のいのちを捨てて買い取ってくださった、人類にとっての唯一の救いの道であるからです。

聖歌217番
1 主にある父らの 奉ぜし教えは 
  獄屋も剣も火も 消しえざりき
  同じ道 進まん われらも雄雄しく

2 勇気と自由もて いざ力尽くさん
  神よりまことを受けたるわれらは
  同じ道 進まん われらも雄雄しく

3 主イエスに連れ行かん すべての国民(くにたみ)
  真理は自由にせん   かれらを罪より
  同じ道 進まん われらも雄雄しく

4 こは友、あたびと 区別せず迎え 
  愛もて導く 神の教えなり
  同じ道 進まん われらも雄雄しく