苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

N.T.ライトの是と非

 このところ、N.T.ライトの本が何冊も翻訳出版されています。なるほどという点と、おかしいんじゃないのという点の両方がまじりあっているので、私なりに整理しておきます。

 まず、「福音とは『キリストは王である』という宣言である」というのは、たしかに福音書の記述にかなっていますから、OKです。王なるキリストのもとで、臣民として生きることが、人としての至福であるということです。

 主が再臨したら、携挙されてあっちへ行ったきりでなく「出迎えて」地に戻ってくるというのもOKです。ただし、その地は新しくされた地です。セイヤーの辞書を見れば再臨の主と「会う」と訳されているapantesisは、マタイ25章の「花婿を出迎えよ」と、使徒末尾のローマの兄弟姉妹がパウロを出迎える場面でも用いられている語です。

 もう一つ大事なOKは、今の世は予行演習で次の世が本番なのだから、今の世を責任をもって生きていこうということ。これは大事な指摘です。私たちは新しくされた被造物の相続人となるというのは、大事なことです。

 つぎに、ライトのいただけないところは、一つはイエスが徐々にキリスト意識に目覚めていったのだというのは、福音書の中に根拠がありません。イエスは12歳のときの発言をみてもすでに神の御子としての意識があったし、ガリラヤ宣教の最初から自分は神的権威をもつメシヤであることを自覚していたことは、福音書を読めば明白です。ライトは、このあたり、リベラルな聖書学の影響を受けたために、聖書を読み違えています。

 もうひとつ、いただけないのは、義認の理解。彼のいわゆる1世紀のユダヤ教(第二神殿期のユダヤ教)の色眼鏡の色が強すぎる解釈で、パウロを読み違えていると見ています。この件については、今度、「福音主義神学」という学会誌に載せる予定です。