苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

創世記19:9「ワ・イシュポート シャーポート」

新改訳2017

しかし、彼らは言った。「引っ込んでいろ。」そして言った。「こいつはよそ者のくせに、さばきをするのか。さあ、おまえを、あいつらよりもひどい目にあわせてやろう。」彼らはロトのからだに激しく迫り、戸を破ろうと近づいた。

 

新改訳第三版

しかし彼らは言った。「引っ込んでいろ。」そしてまた言った。「こいつはよそ者として来たくせに、さばきつかさのようにふるまっている。さあ、おまえを、あいつらよりもひどいめに会わせてやろう。」彼らはロトのからだを激しく押しつけ、戸を破ろうと近づいて来た。

 

聖書協会共同訳

だが彼らは言った。「引き下がれ。」「こいつはよそからやって来ていながら、取り仕切ろうとしている。それならあの連中より先にお前のほうをいたぶってやろう。」そして、ロトの身に激しく迫り、近寄って戸を破ろうとした。

 

口語訳(1955年)

19:9彼らは言った、「退け」。また言った、「この男は渡ってきたよそ者であるのに、いつも、さばきびとになろうとする。それで、われわれは彼らに加えるよりも、おまえに多くの害を加えよう」。彼らはロトの身に激しく迫り、進み寄って戸を破ろうとした。

 

文語訳

19:9彼等曰ふ爾退け又言けるは此人は來り寓れる身なるに恒に士師とならんとす然ば我等彼等に加ふるよりも多くの害を爾に加へんと遂に彼等酷しく其人ロトに逼り前よりて其戸を破んとせしに

 アンダーライン部分は、ヘブル語本文では「ワ・イシュポート シャーポート」という表現である。いうなれば、「馬から落馬する」とか「頭痛が痛い」のような表現である。重言は日本語では誤りとされるが、ヘブル語では反復を示すようで、そのニュアンスを文語訳では「恒に」、口語訳では「いつも」と訳していた。だが、聖書協会共同訳は「取り仕切ろうとしている」、新改訳第三版は「さばきつかさのようにふるまっている」と、「恒に」「いつも」という表現を外した代わりに、「ーている」という表現で反復を示そうとしている。

 ところが、2017はずいぶんあっさりと「さばきをするのか」と疑問形に訳して、反復のニュアンスを消してしまったように見える。これはいかがなものか?

 文脈的に言えば、アブラムがメソポタミア連合軍から捕虜や財を取り戻して大勝利を得たことによって、伯父の七光りで甥ロトはソドムの町である地位を得るようになったらしく、彼は町の門のところに座る顔役となっていた。当時、町の門には長老たちが座っていて諸々の問題をさばいていた。よそ者のロトがそういう立場に着くことは異例のことであった。私たちの印象では、ロトという人物のふるまいは立派に見えないことが多いが、ソドムの道徳的水準はあまりにもひどかったので、ソドム人からいえばロトは「口うるさい糞まじめな男」だったのである。それが、この「ワ・イシュポート シャポート」という表現に出ていると思われる。だから、従来は「恒に」「いつも」と訳したり「ーている」と訳してきたのであるが、2017「さばきをするのか」からはそのニュアンスを読み取れない。どうして、このように訳したのだろうか?

 

<追記>

 友人の旧約学者にきいたら、このように、<ワ・動詞、不定詞>という形はゲゼニウス(p343)によれば強調表現に分類されている。民数記11章32節のように、これを反復の意味にとる例もあり、また、NEB,REBは疑問文に訳している。2017はこの説を取ったのであろう、とのこと。

 このように、結局、どちらにも訳しうるということのようである。それで「いっつも、お前は俺たちをさばいてるな!」というふうに反復的に表現して強調しているように訳すか、または、疑問形で強い反感を示しているように訳すということである。