創世記19章
2016年10月23日
1.ロト―――腐った鯛
(1)腐っても鯛
主はこれまで何度も摂理をもってロトに警告を与えてこられました。「ソドムの町に近づくな。ソドムは滅びの町である」と。彼は最初ソドムのそばに住みました(創世記13:12)。けれども、いつのまにかロトはソドムの町の中に住むようになり、そのため、この町をメソポタミアの軍隊が攻めたとき、彼もまた財産もろとも捕虜とされて連行されてしまったのです(創世記14:12)。ところがアブラハムが、ソドムの人々とともに、メソポタミアの連合軍からロトを救出しました。このときが、彼がソドムの町を離れるチャンスでした。
けれども、ロトは懲りもせずあえて再びソドムに住むことにしたのでした。しかも、相当この町の中枢に深くかかわることになっていったことがわかります。恐らく伯父のアブラハムが先の戦争の際、ロトとともにソドムの人々を救出したので、ロトも町で有力者となったのだろうと思われます。ロトがソドムの門のところに座っていた(19:1)という記述がありますが、当時、オリエントの町では、その町の長老・顔役は、町の門のところに座っていて、町で起こるさまざまなことを決裁することになっていました。
さて、このようにソドムと縁を切るべきであるのに、縁を切ることのできないロトではありましたが、それでも「腐っても鯛」と申しましょうか、彼はやはり神の人アブラハムの甥らしい面があります。その一つは旅人を心からもてなし、またなんとしても守り通そうとしたことです。19:1−3をご覧ください。「そのふたりの御使いは夕暮れにソドムに着いた。ロトはソドムの門のところにすわっていた。ロトは彼らを見るなり、立ち上がって彼らを迎え、顔を地につけて伏し拝んだ。そして言った。『さあ、ご主人。どうか、あなたがたのしもべの家に立ち寄り、足を洗って、お泊まりください。そして、朝早く旅を続けてください。』すると彼らは言った。『いや、わたしたちは広場に泊まろう。』しかし、彼がしきりに勧めたので、彼らは彼のところに向かい、彼の家の中に入った。ロトは彼らのためにごちそうを作り、パン種を入れないパンを焼いた。こうして彼らは食事をした。」彼がどれほど真心を込めて旅人をもてなしたかがよく分かる個所です。旅人をもてなすということは、たいせつな神の民の実践です
(2)しかし、相当腐っている
けれども、同時にロトは相当この町からの影響を受けてしまっています。町の人々がロトの家に泊まることになったお客を目当てに、集まってきました。かわいがってやろうぜ」というわけです。彼らは御使いたちを男色の相手としようと考えているのです。(5節)
このときロトはなんと言いましたか。6節から8節。「兄弟たちよ。どうか悪いことはしないでください。 お願いですから。私にはまだ男を知らないふたりの娘があります。娘たちをみなの前に連れて来ますから、あなたがたの好きなようにしてください。ただ、あの人たちには何もしないでください。あの人たちは私の屋根の下に身を寄せたのですから。」確かに彼が自分の客をあくまでも守ろうとしたことは立派です。けれども、どうですか。自分の娘たちを、かわりに差し出そうというのです。これはなんともひどい話です。こんなことはソドムの住人のしそうなことではありませんか。
また、ロトの妻もソドムの影響を相当受けています。彼女は「振り返るな」と厳しく言われたのに、ソドムに残してきた富や快楽に後ろ髪ひかれる思いがして、つい振り返って塩の柱になってしまいました(26節)。
またロトの娘たちも、ひどくソドムの町の人々の価値観の影響を受けてしまっているではありませんか。特に、彼女たちは、子どものときからソドムに住んでいたのですから、親にくらべてずっとソドムの影響を受けやすかったのでしょう。なんと彼女たちは父によって子をえようとしました。姦通・暴力・獣姦淫など不道徳の町ソドムの人々にとっては、近親相姦など朝飯前だったのでしょう。彼女たちもその影響を受けてしまっていました。
私たちは見るもの、聞くこと,触れるものに影響を受ける者です。ですから、見るもの、聞くこと,触れるものに注意しなければなりません。テレビや音楽や書物・雑誌類など、あなたが日ごろ見たり聞いたりするものは、神の子どもが見たり聞いたりするものとしてふさわしいものでしょうか。よく考えてみてください。そして、もしそれらがあなたの躓きとなり誘惑となるならば、きっぱりと捨て去るべきです。また、朱に交われば赤くなります。神の民としてきよく生きようと願うならば、友を選ばねばなりません。
2.ソドムと神の裁き
(1)暴力と腐敗した性
ソドムは東西の文物を集め、富が集まる都市でした。富の集まるところには、人間の欲望があつまり、人間の欲望が集まるところには罪も集中するのです。
ソドムの町には同性愛、暴力がはびこっていました。不道徳が、人類にとっての癌細胞でした。彼らはアブラハムが御使いを連れて自分の家に行ったとき、彼らはすぐにやってきて、この御使いたち――おそらくこの世ならぬ美しい姿をしていたのでしょう―を強姦しようとしました。暴力と性道徳の混乱、商品化がソドムの町の特徴でした。
バイオレンスと性の商品化といえば、まさに現代日本の状況ではありませんか。子どもの漫画であれ、男性雑誌、少女向け雑誌であれ、暴力と商品化された性が売り物になってしまっています。テレビでも映画でもこうしたものに埋め尽くされています。
そして同性愛をはじめ異常性愛の許容、あるいは奨励です。
それどころか、ごく普通の公立学校でも「包括主義性教育」と称して「コンドームを使って安全なセックスをしよう」と不品行を奨励してさえいるのが日本の現状です。その結果,今日では高校生の半数以上が経験者であるというのです。私たちはとんでもない時代に生きているのです。まさに現代日本は、ソドムやゴモラのようになってしまっているのです。
(2)神の裁き
神様はたいへん寛容で忍耐強いお方です。私たちの罪を多くは忍耐して見過ごしてくださっています。けれども、神様は正義の審判者です。いつまでも罪を見逃したままにはなさいません。あくまでも悔改めようとしない者には、恐ろしい裁きをくだされるのです。特に、ソドムとゴモラは全人類にとっては進行性のガン細胞のような存在でしたから,神様はこれを立ち滅ぼすことに決定されたのです。ソドムとゴモラの町は、天から硫黄の火がくだって、一夜にして滅びてしまいました。24,25節。「そのとき、【主】はソドムとゴモラの上に、硫黄の火を天の【主】のところから降らせ、これらの町々と低地全体と、その町々の住民と、その地の植物をみな滅ぼされた。」
ソドムだけではありません。歴史上、堕落した町、神に公然と背く都市は、このようにして滅ぼされてきました。神が都市を裁く方法はいくつかありますが、一つにはソドムの町のように天変地異によるさばきです。歴史上名高いのは、イタリアのポンペイの町です。この町はベスビオス火山の噴火によって数時間で滅亡してしまいました。ポンペイはローマ人の保養地であり、温泉街にありがちな不道徳がはびこっていました。遺跡の発掘によって,この町がどれほど不道徳な町であったことがわかっています。また、神は戦争をもって腐敗堕落した都市を裁くことがあります。あのエリコの町がそうでした。当時、エリコの町には神殿娼婦や神殿男娼がおり、また、子どもたちがいけにえとして神々に捧げられていました。考古学者は多数の殺された赤ん坊をいれた甕を神殿で発見しました。
神は生ける神です。歴史を裁かれる神です。私たちは神を恐れなければなりません。
わが国の年間の妊娠中絶件数は30万件で、実数は100万件だそうです。しかも、今日ではその多くの子どもは手軽なセックス遊びの結果なのです。
私は、聖なる審判者である神様は、これほど堕落しきった日本民族をいつまで許容されるのだろうかと思うのです。私たちは、キリストの福音を伝え,神を恐るべきことをこの世に特に若者たちに教えなければなりません。
3.救い
神の裁きがくだったとき、虚飾に満ちたソドムの町はご馳走や香水のかおりで満ちていたでしょう。けれども、神の御前には、それらは悪臭でした。しかし、神はそんなソドムの町からも救われる人々を選ばれました。
(1)家族という単位
神様は家族という単位を大切にして救いのわざを進めて下さるということがわかります。12節を見てください。御使いは、「ほかにあなたの身内がいますか」とたずねています。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」ということばを思い出しますね。こんなすばらしい約束があるのですから、私たちは、家族の救いのために、忍耐強く祈りつづけ証をしつづけることが必要です。
(2)主のあわれみによる
次に、主の哀れみを深く感じるところです。主が夜明けにはこの町を滅ぼしてしまうとおっしゃるのに、ロトはなおも躊躇していました。すると、16節「しかし彼はためらっていた。すると、その人たちは彼の手と彼の妻の手と、ふたりの娘の手をつかんだ。──【主】の彼に対するあわれみによる。そして彼らを連れ出し、町の外に置いた。」御使いたちは彼らの手をつかんで彼らを町から無理やり引っ張り出してくれたのです。普通、こんなことはありえないことではありませんか。
(3)あざわらった婿たち、振り返ったロトの妻
しかし、いかに神様が哀れみ深いお方であっても、神様の救いを拒み、神様の警告をあえて無視して反逆する者は、神様からの審判を受けることになります。ロトの娘たちの婿たちは、ロトの警告に耳を貸そうとしませんでした。彼らには、それは悪い冗談にしか聞こえなかったのです(14節)。
また、ロトの妻も主の警告にあえて反抗して、振り返ったために塩の柱になってしまいました。
今日、私たちはイエス様の福音を宣べ伝えます。「天地万物を造られた神が、私たちの救いのために御子イエス様を使わされた。イエス様はあなたの罪のためにも十字架にかかって苦しまれ、三日目によみがえられました。このイエスを信じれば、あなたも罪ゆるされ、神様の子とされて天国に入ることが出来ます。」こうして宣べ伝える福音を、ある人々は冗談のようにしか思いません。馬鹿にしてきこうともしない人もいます。このように、神様からの福音と警告を聞きながら、あえて心を閉ざし、耳を閉ざす人には、神の審判が待っているのです。
(4)アブラハムの祈りを主が覚えておられたから
最後に、27節から29節を見ましょう。夜明け前、床にいたアブラハムは体に自身を感じ、恐ろしい地響きを聞きました。「しまった。10人いなかったのだ!」とアブラハム飛び起きて、主に食い下がって祈ったあの場所へと急ぎました。そこからは、ソドムの町が見下ろせる場所です。すると、そこはちょうど原子爆弾が落ちたように、一面の廃墟となっており、かまどのように煙が立ち昇っていたのです。アブラハムの受けた衝撃、失意落胆と後悔は想像するにあまりあります。「ロト!ロト!」という嘆きが聞こえてきそうです。この時、アブラハムはロトが災害を逃れていたとは知る由もありませんでしたから。
アブラハムは、甥のロトを連れて故郷を旅立った日のことを思い、自分のロトに対する愛が足りなかったことを後悔したに違いありません。
けれども、ロトは救出されていたのでした。なぜロトは救われたのでしょうか。29節にあるとおりです。「こうして、神が低地の町々を滅ぼされたとき、神はアブラハムを覚えておられた。それで、ロトが住んでいた町々を滅ぼされたとき、神はロトをその破壊の中からのがれさせた。」主がアブラハムを覚えておられたからです。主は、私たちが愛する者のために捧げる祈りをむなしくなさらないのです。主は私たちの祈りをも覚えていてくださるのです。