「死んだらすべてが無意味になるのに、何かを必死に成し遂げる意味はありますか?」という問いかけに答えを求められたので、パスカルを思い出して下のような回答を書いてみました。
まず唯物的・無神論的教育で洗脳された現代人たちが信じて疑おうともしない「死んだらすべてが無になる」は疑ってみるべきでしょう。
パスカルという人は、「賭け」の断章で面白いことを言っています。神が実在するかしないかについて人間理性ではわからない。わからないけれど、人は神は実在するに賭けるか、神は実在しないに賭けるか二つに一つを選ぶほかない。どちらにも賭けないという人は、すでに神は実在しないという方に賭けているのだ。
そこで、神は実在するに賭けた場合と、神は実在しないに賭けた場合と、どちらが期待値が高いといえるかを計算すべきである。
神は実在しないに賭けた場合、現世において人生には目的がないことになり、むなしいなあと感じながら過ごさねばならない。しかも、死んでみたとき、もし神が実在したならば、神を無視して生きたことに対する罰を死後に受けることになる。また、死んでみたとき、もし神が実在しなかったならば、それだけである。あなたはむなしいなあと感じながら生きたということになる。
他方、神は実在するに賭けた場合、現生において人生は神のくださった有意義なものであるという充実感を持って生きることができる。しかも、死んだとき、もし神が実在したならば、神はあなたが神を愛して充実して生きたことを評価して次の世において至福の永世に入れてくださる。死んだとき、もし神が実在しなければ、それで終わりだが、少なくともあなたは現世にあって充実した人生を送ることができる。だから、「神は実在する」に賭けて生きたほうが大いに得である。
記憶をたどって書いたのですが、おおむねこんな内容です。最後に聖書のことばを一節紹介します。
「ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。」(1コリント15:58)