「人間は自然のうちで最も弱いひとくきの葦にすぎない。しかし、それは考える葦である。これをおしつぶすのに、宇宙全体はなにも武装する必要はない。風のひと吹き、水のひとしずくも、これを殺すに十分である。しかし、宇宙がこれを押し潰すときにも、人間は、人間を殺すものよりもいっそう高貴であろう。なぜなら、人間は、自分が死ぬことを知っており、宇宙が人間の上に優越することを知っているからである。宇宙はそれについてはなにも知らない。
それゆえ、我々のあらゆる尊厳は思考のうちに存する。われわれが立ち上がらなければならないのはそこからであって、我々の満たすことのできない空間や時間からではない。それゆえ、我々はよく考えるようにつとめよう。そこに生きることの根源がある。」(L200,B347)
1.無限の空間の永遠の沈黙−−コスモスの崩壊−−−
「私」を押しつぶすのはなぜ宇宙なのだろうか?ほかにも『パンセ』には次のようなことばもある。
「誰が私をこの世界に置いたのかを私は知らない。世界が何であるか、私自身が何であるかを私は知らない。私はすべての事物について恐るべき無知の中にいる。・・・私は私を取り巻いている宇宙の恐ろしい空間を見る。私は私がこの広大な広がりの一隅に結びつけられているのを見出す。しかも、私はなにゆえ私がかしこではなく、ここに置かれているのか、何故、生きるために私に与えられているこのわずかな時間が、私に先立つすべての永遠と私のあとに続くすべての永遠のなかの他の地点に指定されずに、この地点に指定されたのかを知らない。私はあらゆる方向に無限を見るばかりである。この無限は私を、一つのアトムとして、一瞬ののちには去って再び帰らない一つの影として、包んでいる。」(B194)
パスカルの宇宙観の背景には中世から近世への宇宙観の変革があった。すなわち、価値の階段的秩序としてのプトレマイオス的なコスモスとしての中世の宇宙観から、「無限の空間」としての近世的宇宙観への変革である。これを思想史家アレクサンドル・コワレは「コスモスの崩壊」と呼んだ。中世まで宇宙は「有限で閉ざされた、階層秩序を持つ全体としての世界」と見られていた。「その全体の中では、暗く重く不完全な地(球)からより高い完全性を持つもろもろの星と天球に至るまで、価値の階梯が存在の階梯と構造を決定している」ものであった。いわば中世の宇宙は存在の意味についてペラペラとしゃべっていたわけである。宇宙のなかでどこに位置するかということが、それぞれの存在の意味であった。
ところが、ガリレオ、ケプラー以来、近代天文学は宇宙は無限の空間であると教えるようになっていた。つまり、宇宙は「基礎的な成分と法則の同一性によって結ばれ、そのなかではこれらすべての成分が存在の同一レベルに位置付けられる無際限の宇宙、さらには無限の宇宙が登場し」たのである。等質の無限の宇宙のなかに特定点はなく、したがってここにいる自己の存在の意味を聞き取ることはできない。無限の空間にすぎぬ宇宙は沈黙している。
等質の無限のなかで個物は無意味である。近代の合理主義・唯物主義がもたらす人間疎外をこの断章は暗示している。合理主義・唯物主義は、人間は結局のところアトムの集まりにすぎず、石ころも人間もみな同質であるという。モノという等質の無限のなかに個物が埋没してしまっているのである。パスカルの次の世紀フランス革命時には、「人間機械論」が登場するし、より現代的にいえば人間とは遺伝子の束にすぎず、遺伝子の束の組み合わせでいかような人間でも造り出せるということになる。いずれにしても、人間を物質に還元できてしまうという見方である。
ここには人間の生きる場を見いだすことができないので、人々は不合理な飛躍をするようになる。合理主義的に「考える」ならば、人生は無意味になりシラケるから、ただ「感じる」ことのみに走るのである。20世紀のキリスト教思想家フランシス・シェーファーが『理性からの逃走』という書物であきらかにしたのはこのことである。
2.「考える葦」の意味
このように人間存在を無意味にしてしまう無限の空間としての宇宙の中にあって、「思考が人間の偉大をなす」とパスカルは言う。人間は肉体は宇宙に押しつぶされるとしても、思考をもって宇宙を包むゆえに、宇宙より高貴だという。このことばから、ある人々はパスカルも「われ思うゆえに我あり」を全哲学の土台としたデカルトと同じように、理性を称揚している近代人であるかのように主張する。たとえば岩波の哲学小辞典には、つぎのようにある。「(考える葦とは)自然的な存在としての人間の高貴さ、偉大さを一言であらわしたもの。近代人の<実存>の一側面を示している。」
けれども、パスカルの文章を虚心坦懐に読むならば、彼がいう思考は、デカルト的な傲慢な自律的理性による思考ではない。パスカルはなにを思考するといっているのか。彼は、自分が死ぬべきちっぽけな存在にすぎないという事実を自覚するといっているのである。人間の悲惨を知ることが、聖書的なキリスト者であったパスカルの思想の特質である。パスカルの思想はこの点で近代ヨーロッパの思想史に異彩を放っている。
近代思想の根本的特徴は、その人間に関する楽観主義にほかならない。近代合理主義思想のドグマは、人間理性の自律ということである。合理主義rationalismであるが、ratioはラテン語で理性を意味し、ismとは「主義」「論」「中毒」を意味する。したがって、rationalismとは理性中毒にほかならぬ。大陸合理論にせよ、英国経験論にせよ、それらを統合したと言われるカントにせよ、更にヘーゲルにせよ、その根底には理性中毒がある。しかし、パスカルは人間の悲惨を述べ、人間理性の限界をわきまえていた。
「考える葦」とは己が、神の御前にかよわい葦にすぎないことを自覚する人間である。その悲惨な自己を認識できるゆえにこそ、人間は偉大なのである。自己の悲惨を認めてこそ、人はキリストにあって神を知ることができるからである。「理性の最後の一歩は、理性を超える事物が無限にあるということを認めることである。それを認めるところまで至りえないならば、理性は弱いものでしかない。」(L188)
「人間の偉大は、人間が自己の悲惨なことを知っている点において、偉大である。樹木は自己の悲惨なことを知らない。それゆえ、自己の悲惨を知るのは悲惨なことであるが、しかし人間が悲惨であるということを知っているのは、偉大なことである。」(L114)
近代人の特質は、人間本性は善であるとし、人間理性を高調し、ゆえに、救いは人間自身から出てくると主張した点にある。ルネサンス人はギリシャ・ローマ時代に人間世界の理想的な状態があったと信じて、その復興を図った。フランス革命は理性の女神を祭り上げて非合理なもの一切を葬り去ろうとした。十九世紀人は、世界の現状には悪があっても、それは人間理性が進化途上であるからであり、人間理性の進化によってすべての悪は解決すると信じた。過去に理想を見るか、未来に理想を描くかというちがいはあっても、彼らは人間本性の善と理性の高調という点では共通していた。
しかし、パスカルは人類史上、最高の知性の一人でありながら、近代のむなしい夢に酔いしれることはなかった。彼は人の本性が罪に汚れ、かつ理性には限界があることをしかとわきまえていたのであった。それはパスカルが、福音書を通じて主キリストと出会ったからである。
メモリアル(覚え書き)
キリスト紀元1654年
11月23日月曜日、教皇で殉教者の聖クレメンス、および殉教者伝に出ている
他の殉教者たちの祝日、殉教者、聖クリソゴノス、および他の殉教者たちの
祝日の前夜、夜10時半頃から、12時半頃まで。火
「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」。(出エジプト3:6)
哲学者や、学者の神ではない。
確実、確実、直感、よろこび、平安。
イエス・キリストの神。「わたしの神、またあなたがたの神(ヨハネ20:17)
Deum meum et Deum vestrum.」
「あなたの神は、わたしの神です」。(ルツ1:16)
この世も、なにもかも忘れる、神のほかは。
神は、福音書に教えられた道によってのみ、見出される。
人間のたましいの偉大さ。「正しい父よ、この世はあなたを知っていません。
しかし、わたしはあなたを知りました」。(ヨハネ17:25)
よろこび、よろこび、よろこび、よろこびの涙。わたしは、神から離れていた。
「生ける水の源であるわたしを捨てた(エレミヤ2:13)
Dereliquerunt me fontem aquae vivae.」
「わが神、わたしをお捨てになるのですか」。(マタイ27:46)
どうか、永遠に神から離れることのありませんように。「永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、
あなたがつかわされたイエス・キリストを知ることであります」。(ヨハネ17:3)
イエス・キリスト。
イエス・キリスト。
わたしは、かれから離れていた。かれを避け、かれを捨て、
かれを十字架につけたのだ。
もうどんなことがあろうと、かれから離れることがありませんように。
かれは、福音書に教えられた道によってのみ、保持していられる。
すべてを捨てた、心の和み。
イエス・キリスト、そしてわたしの指導者へのまったき服従。
地上の試練の一日に対して、永遠のよろこび。
「わたしは、あなたのみことばを忘れません
Non obliviscar sermones tuos.」。(詩篇119:16)アーメン。(田辺保訳)