苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

君こそわが命

1 あなたをほんとはさがしてた

  汚れ汚れて傷ついて

  死ぬまで逢えぬと思っていたが

  けれどもようやく虹を見た

  あなたの瞳に虹を見た

  君こそ命 君こそ命 わが命

 

2 あなたをほんとはさがしてた

  この世にいないと思ってた

  信じる心をなくしていたが

  けれどもあなたに愛を見て

  生まれて初めて気がついた

  君こそ命 君こそ命 わが命

 

3 あなたをほんとはさがしてた

  その時すでにおそかった

  どんなにどんなに愛していても

  あなたをきっと傷つける

  だから離れて行くけれど

       君こそ命 君こそ命 わが命

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 ある日、クルマを走らせていたら、ラジオから水原弘の『君こそわが命』が流れてきました。そして、圧倒的な歌唱力に引き込まれました。(聞いたことのない人はユーチューブを)そして「ああ、この歌はイエスと出会ったサマリアの女の歌じゃないか。」と思いました。

 

サマリア

 サマリアというのは、イスラエルの地方名です。二千年前、サマリア人と呼ばれる人々はユダヤ人と仲が悪かったのです。

サマリヤ地方は過去に暴虐なアッシリヤ帝国によって滅ぼされて、民族性を抜くため政策的に異民族と混血させられた人々でした。それで血統を重んじるユダヤ人たちはサマリア人を嫌い、接することも避けていて、サマリア地方を通ることもしなかったのです。ところが、ある日イエスは弟子たちとユダでの宣教を終えて、ガリラヤ地方へと向かうにあたって、わざわざサマリヤ地方を通って行かれました。

 太陽がじりじりと照りつける日、一行はある井戸に到着しました。弟子たちは昼食を手に入れるために出かけ、イエスひとり井戸の傍らに、座っておられました。時は正午頃で、イエスは喉が渇いていました。でも、井戸はあっても汲む道具がありません。と、そこに一人のサマリアの女が、甕を頭に載せて水を汲みに来ました。イエスは彼女に、「わたしに水を飲ませてください」と言います。するとサマリアの女はけげんな顔をして、「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリアの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」と応じました。ユダヤ人はサマリア人と付き合いをしなかったからです。

 

ただの水、いのちの水

 するとイエスは不思議なことを言います。「もしあなたが神の賜物を知り、また、水を飲ませてくださいとあなたに言っているのがだれなのかを知っていたら、あなたのほうからその人に求めていたでしょう。そして、その人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」 女は言います。「はあ?あなたは汲む物を持っておられませんし、この井戸は深いのです。その生ける水を、どこから手に入れるのでしょう?」

 女がとまどうのも当然です。水を飲ませてくれというから話が始まったのに、この人は自分は「生ける水」とやらを持っているという。この人は何を言っているんだろう?彼女は続けました。「この井戸はご先祖ヤコブの井戸といって、ヤコブもその子孫も、私たちもずっとこの井戸のお世話になってきたんですよ。あなたは、あのヤコブ様よりえらいのですか?」

 するとイエスは言いました。「この水を飲む者は、また渇きます。でもわたしが与える水は、その人のうちで泉となり、

永遠のいのちへの水が湧き出ます。」

 イエスが言っている「いのちの水」というのは、物質としての水のことではないようです。イエスは、この水の問答をとおしてこのサマリアの女に、ある貴重な真理を伝えようとしていらっしゃるのです。

 イエスが飲んでもすぐに渇く水にたとえているのは、この世の欲つまり肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢といった欲求に直接答えるものです。肉の欲とは物質的肉体的な欲求を満たすものです。腹いっぱい焼き肉を食べるとそれは満腹になりますし、お酒を飲めばその時は楽しくなるでしょう。けれども、それでずっと喜びが続くかと言ったら、数時間もすればむなしくなってしまいます。目の欲というのは、何か好奇心を満たすものです。テレビ番組やゲームやユーチューブなどが手を変え品を変えて提供する目新しいことに私たちの好奇心はひきつけられて、無駄に時間を費やしてしまいます。けれども好奇心を満足させるものも時がたつと、色褪せてしまい、やはりむなしくなってしまいます。暮らし向きの自慢とは、どんなブランドの服

いるか、どんなブランドのバッグを持っているか、どんな高級車のオーナーか、どんな広壮な家に住んでいるか、どういう家柄かなどを自慢する心です。それらは一時的な満足を与えるものでしょうが、結局、飽きてまた渇いて来るものです。

 けれども、イエスが与える「永遠のいのちへの水」をいただくともう決して渇くことがなく、しかも自分が渇かないだけでなく、その人は泉のようになり、周囲にいる人々にまでも潤す存在となるのだというのです。

 

飲んでも渇く水

 しかし、サマリアの女はイエスがいう「永遠のいのちへの水」というのが霊的な真理であるということに半分気づき、半分気づかないようです。毎日毎日、井戸と家の間を往復する重労働から解放してくれる、そんな便利な「渇かない水」とやらがあるなら、欲しいものだと思い、「主よ。私が渇くことがないようにここに汲みに来なくてもよいように、その水を私にください。」と言いました。彼女は物質の水か、霊的な真理かわからないけれど、二度と渇かない水

というものがあるなら、それが欲しいと思ったのです。

 「ください!」と女がいうと、イエスは彼女に唐突に言いました。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」神であるイエスは、彼女が隠している問題があり、それを扱わなければ「永遠のいのちへの水」を受け取れないと知っていらしたのです。

 サマリアの女は答えました。「私には夫がいません。」すると、すべてを見透かしてイエスは言われた。「自分には夫がいない、と言ったのは、そのとおりです。あなたには夫が五人いましたが、今一緒にいるのは夫ではないのですから。あなたは本当のことを言いました。」

 彼女は若い日に、ある男性と出会いました。『こんな素敵な人なら、私を幸せにしてくれる』と、彼と結婚しました。けれども結婚してしばらくすると、彼女は『なんだ。こんな男だったのか』と失望してしまいました。そうして別の男を見つけて、その男のもとへと

走ったのです。『今度こそ、この人は私のことを愛してくれるわ』と彼女は思いました。

最初は『この男は正解だったわ』と思いましたが、数か月すると、『なんだ、がっかり』と思うことが重なり、結局、しばらくすると彼女は夫のもとを離れてしまいました。『もう男はこりごりだわ』と彼女は思いました。けれどもしばらくすると、彼女は三番目の男に目を留めました。・・・こんなふうにして彼女は男から男へと遍歴して来て、今は六人目の男と同棲していたのです。恋愛依存症というのでしょうか。これが彼女の「飲んでも渇き、飲んでもまた渇く水」でした。彼女は「愛されること」ばかり求めて男から男へと遍歴するのですが、決して満足することができなかったのです。

 そんな彼女でしたから、町中の人々からは、ふしだらな女というふうに思われていました。早朝まだ涼しい時に、井戸に水を汲みに行くと、あつまっている女連中が、彼女の姿を見かけると眉をひそめて、ひそひそ話を始めるのでした。ですから、朝に水を汲みに行くのが億劫になってしまって、彼女は誰も井戸には来ていないじりじり日が照り付け

る時に井戸に来て水をくむようになっていたのです。彼女は孤立していたのです。

 このあとサマリアの女は、イエスが神が約束された救い主であることを信じました。すると彼女のうちにイエス様から、「永遠のいのちへの水」である聖霊が与えられました。それは、「神とともにある人生」です。これまで彼女は「愛されること」ばかりを求めるうちに、ふしだらな汚れた生活に陥ってしまっていました。けれども、イエス様と出会ったとき、彼女の人生は変えられました。イエス様と出会って、イエス様によって聖霊が内側に与えられたとき、彼女の人生はあふれる人生「愛されることよりも愛することを喜ぶ」人生へと変えられたのです。孤立した生活から町の人々の中に入っていく開かれた生活へと変えられたのでした。

 

彼女の内で何が起こったのか?

 神はもともと人をご自分の似姿に創造されました。それは神が無限の人格であられるように、人間は有限とはいえ人格的な存在として造られたという意味です。神と人とは祈りによって人格的な交流をなしうる存在なので

す。神は聖書をとおして私たちにご自分の思いを打ち明け、また、私たちの悩みや苦しみを理解してくださるお方なのです。

 ところが、人はこの造り主である神に背を向けています。そして神を見失って心が空洞になってしまった人は、神の代わりに何か肉の欲を刺激するもの、目の欲を刺激するもの、暮らし向きの自慢になるもので、その空洞を満たそうとします。サマリアの女の場合は、それで男から男へと遍歴したのです。ある人の場合は、仕事依存症ということになります。ある人は、パチンコなどギャンブル趣味依存症となります。ある人は、マモニズム(拝金主義)となります。しかし、これらのモノはどこまでも神の代用品にすぎませんから、結局は、むなしくなってしまうのです。

 真の神とともに生きるところに真の幸いがあるのです。サマリアの女は「山のあなたの空遠く」ではありませんが、確かに「幸い」を求めてはいました。けれども、あの歌のように「あなたをほんとはさがしてた。汚れ汚れて傷ついて、死ぬまで会えぬと思っていた」状態であり、「あなたをほんとはさがしてた。この世にいないと思ってた。信じる心をなくしていた」状態

だったのです。

 けれども、主イエスが彼女を探しに来てくださったのです。「しかし、イエスサマリアに行かなければならなかった」と聖書にあります。この汚れ汚れて傷つき、信じる心も失っていた彼女を見つけ出すために、イエス様はサマリアに行かなければならなかったのです。このことに思い当たったときに、水原弘の歌に、もう一節加えることを思いつきました。歌ってみてください。

 

4「わたしがおまえをさがしてた」

  主イエスは私に語られた

 「どんなにおまえが汚れていても

  わたしがきっときよめよう

  だからわたしにとどまれ」と

  イエスこそ命 イエスこそ命

  わが命

 

 イエスは今あなたをさがしておられます。