苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

「民の罪の宥め」?  へブル2:17

新改訳2017

したがって、神に関わる事柄について、あわれみ深い、忠実な大祭司となるために、イエスはすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それで民の罪の宥めがなされたのです。(へブル2:17)

 

新改訳第三版

そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。(へブル2:17)

 「怒りを宥める」とはいうが、「罪を宥める」とは言わない。民に罪があるとすれば、その罪に対する神の怒りを宥めるのである。だから、「民の罪の宥めがなされた」という2017の訳文は、やや不適切であると感じる。むしろ、「民の罪のために、宥めがなされる」と訳した第三版の方が適切であった。意味を補えば「民の罪のために、(神の怒りの)宥めがなされる」ということである。

 ギリシャ語テクストを直訳的に英訳すれば、

in order to make propitiation for the sins of the people

であるから、やはり第三版のほうが適切であった。

<追記>
大辞泉による語義説明では、第二番目に「罪などに対して寛大な処置を取る」という意味があるとされていますが、その出典は鎌倉時代の『曽我物語』です。古典ではそういう用法があったのでしょうが、現代日本語ではありません。