苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

物語的啓示と命題的啓示の両方が聖書である

このところ、福音派と呼ばれる人々の中でも、物語神学がブームである。その主唱者たちは、神は啓示を与えるにあたって、「神は創造主である」とか「神は無限である」といった命題によってではなく、ご自分の契約を与えた民をどのように歴史の中で扱われたか方法で啓示をしたと主張する。神の民が生ける神との出会いを経験したのであり、その物語を読む読者も、その物語に巻き込まれて、自らの神との出会いの物語をその人生で紡いでいくのだというふうなことをいう。

 これは聖書啓示の一面をとらえていることは事実である。たしかに、聖書の多くの部分は神の民の神との出会いの出来事の記述からできており、それを読むことを通して、読者は神は歴史の中に働かれる生ける神であることを命題的方法によるよりも、如実に知ることができる。

 だが、神は聖書を啓示するにあたって、命題的な方法をも取っておられることも、もう一面の事実なのである。福音書のジャンルに関する研究において、福音書の当時の周辺世界における文書と際立った特徴は、その中に歴史的物語的叙述の部分と、教えの部分の両方が含まれているということがある。当時の周辺世界では、「教えの文書」は教えのみを記し、「物語の文書」は物語のみを記していた。だが、福音書は、主イエスの歩まれたこと、行動したことの事績を記す部分と、たとえば山上の説教のような教えの部分とが、ないまぜになって記されている。このような文学ジャンルの出所について学者たちの議論があるが、実は、物語と教えとがないまぜになったジャンルというのは、旧約聖書における出エジプト記の記述法を起源としているのである。また、新約聖書という全体を見れば、福音書使徒の働きは物語的部分であり、書簡は教え的部分なのである。

 物語的啓示の長所は、先に書いたように、神は歴史の中に働かれる生ける神であることを知らせる点にあり、読者は追体験をすることができるということである。だが、物語啓示の弱点は、その物語を通じて何を伝えたいかということは、明瞭ではなく、読者の主観によって相当左右されてしまうということである。他方、命題的啓示の長所は、何を伝えたいかということが、物語的啓示に比べて、はるかに明瞭であるということである。しかし、命題的啓示の弱点は、観念的・抽象的であるということである。そこで、神は聖書を啓示するにあたって、物語的手法と、命題的手法の両方を採用なさったのだと、筆者は理解している。

 中世の神学、そして、近世の保守的神学とその系譜をひく福音派の神学は、どちらかといえば命題的啓示を重んじてきた傾向があり、近年は、物語ブームである。だが、神は聖書を命題的方法と物語的方法の二つをもって、啓示されたのである。