苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

学問の目的と学会

 学問の目的は真理の探究であると思います。

 ところで、学界に論文を発表するとなると、何か新しいことを言わねばなりません。しかも、ただ新しいのでなく、その時代の学界のはやりすたりというものがあって、その時流に乗ったものでなければ学会で論文は評価されないそうです。それで、学者は学界の動向を見極め、従来の説にないことを書いてみるわけです。経済学の学者がそんなことを、半ば嘆きながら言っているのを読みました。また、聖書学や神学の世界でも似たようなことがあります。学界全体が聖書が何を教えているかを探求しているように装いながら、実際には、時代の価値観にあわせて解釈をゆがめているということがなくはありません。

 一人でただ研究するのでなく学会に加わるのは、切磋琢磨して学的成果を積み重ねていくためなのですから、上に書いたことは必ずしも悪いこととはいえません。他者の意見に耳を傾ける謙虚な姿勢は研究者として大事なことです。けれども、学界の動向、何か新しいことを言わなくてはという思いは、必ずしも真理の探究に役立つとはかぎらないことは明白でしょう。ノアの時代のように集団で真理から遠ざかっていくということにもなります。「伝道者の書」の著者に言わせれば、「これもまたむなしい」ということになるのでしょう。聖書における真理の探究に関して言えば、学界で互いの意見に謙虚に耳を傾ける以上に大事なことは、聖書の語ることに謙虚に耳を傾けることです。