苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ハジマリニ カシコイモノゴザル

新改訳
「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。」(ヨハネ福音書1:1―3)


ギュツラフ訳冒頭
「ハジマリニ カシコイモノゴザル、コノカシコイモノ ゴクラクトモニゴザル、コノカシコイモノワゴクラク。ハジマリニ コノカシコイモノ ゴクラクトモニゴザル。」

 「初めにことばがあった」というヨハネ福音書冒頭はあまりにも有名だけれど、ギリシャ語ロゴスに対する「ことば」という訳語は適切なのだろうか。
 旧約聖書を知っている読者を想定するならば、創世記1章において、神が「光あれ」とことばを発せられて光ができ、万物が造られたということとの関連で見るならば、確かに、ここは「ことば」と訳すのが良いのだろう。
 だが、ヨハネ福音書が、しばしばいわれるように旧約聖書を知らない異邦人を最初の読者として想定して書かれたのだとするならば、ここは「ことば」では意味が通じない。実際、初めての邦訳に協力した江戸時代末期の日本の三人の船乗りたちは、「ことば」では通じないと考えて、「かしこいもの」と訳した。
 「かしこいもの」は、いわば、1世紀のギリシャ語文化圏に生きていた異邦人たちにとってのロゴスに当たることばだったのではなかろうか。当時、地中海世界に普及していたストア哲学においては「ロゴスとは、神が定めた世界の神的な論理を『ロゴス』と呼び、ときにこれを神とも同一視した。このような神格化に伴い、ロゴス賛歌のような詩も作られた。」(Wikipedia)つまり、人間の論理を成り立たせているだけでなく、宇宙を成り立たせている普遍的な理法をロゴスと呼んだのである。ロゴスが、そういう意味をもつ言葉であったからこそ、ヨハネは「初めに、ロゴスがあった。」と書き始め、そのロゴスが神であり、また、ロゴスが万物を創造したと語ったのである。
 ヨハネは、ギリシャ文化圏に属する読者たちに、「あなたがたは、宇宙の普遍的理法である神なるお方がいるらしいということは、漠然と知っているでしょう。そのお方が、人となってこの世界に来られたイエス・キリストです。」と伝えようとしたのである。実際、後年、アウグスティヌスは『告白録』の中で、ヨハネ福音書冒頭を読んだとき、神なるロゴスのことは聖書以外のところですでに知っていたと語っている。ただ、「ロゴスが人となって、私たちの間に住まわれた」(ヨハネ1:14)こと、つまり、ロゴスの受肉の真理については、福音書を読んで初めて知ったと告白している。