思想史上、人権について論じ始めた思想家は英国のジョン・ロック(1632‐1704)です。彼は『市民政府論』の中で、創世記9章の大洪水後の神の宣言に基づいて、自然権とは創造主が人間ひとりひとりに生まれながらに与えた権利であるとしています。ロックによれば、創造主の作品である人間は、自然状態においては自由かつ平等であり(4)、人間は、他人を愛することと自分を愛することとは同様に義務であるという自然法の下に置かれていたのだとします(5)。
聖書に根拠を置くロックの人権論は1776年のヴァジニア権利章典に反映して、「すべての人は生来ひとしく自由かつ独立しており、一定の権利を有するものである」と表現されています。それが同年の米国独立宣言に反映して、「すべての人は平等に造られ、造物主によって、一定の奪いがたい天賦の権利を付与され、その中に生命、自由および幸福の追求の含まれることを信ずる」となります。
米国の独立戦争に従軍したフランス人たちは、これらの宣言文を持ち帰り翻訳したので、フランス革命における「人および市民の権利宣言」(1789年)に、これらの思想が影響を与えました。ただし、フランス革命はジャン・ジャック・ルソーの影響を受けて反キリスト教的性格が強かったので、人権宣言には人権の付与者として聖書の創造主を登場させません。代わりに「譲渡不能かつ神聖な自然権」とか「至高の存在の面前でかつその庇護の下に、つぎのような人および市民の権利を承認し、かつ宣言する」というせいぜい理神論的な表現になっています。次のような具合です。
「序文 国民議会は、至高の存在の面前で、かつ、その庇護の下に、つぎのような人および市民の権利を承認し、かつ宣言する」
「第一条 人は、自由かつ権利において平等な者として出生し、かつ生存する」。
フランス革命では、カトリック教会は大弾圧を受け、多くの司祭たちは粛清されています。代わりに、ルソー『社会契約論』をバイブルとした生真面目なロベスピエールが司祭となって「至高の存在」崇拝を行なっています。
つまり、近代思想における「人権」は、その出所はもともと聖書なのですが、段々と理神論化・世俗化し、ついに異教化されたというわけです。人権は、国家権力を超越した創造主を根拠とすることによってこそ、国家に優越すると主張することができたのです。ところが、世俗化されて創造主を根拠としなくなると、結局、国家権力者の絶対化、国家崇拝ということに逆戻りしてしまいます。フランス革命の思想的系譜の中にロシア革命、中国革命などが起こりますが、それぞれスターリン崇拝、毛沢東崇拝が生じたのは偶然ではなく必然です。
近代日本の場合には、吉田松陰は「一君万民論」を唱え、天皇の前に、すべての国民は平等の権利を有するとしました。フランス革命における「至高の存在」、共産主義革命におけるスターリン、毛沢東の位置に天皇が置かれているわけです。ただし、天皇とこれらの共産主義革命の指導者たちとの違いは、共産主義革命の指導者たちは一代限りの軍事的政治的指導者であったのに対して、天皇は(ある程度フィクションですが)「万世一系」の伝統を根拠とした権威であるという点です。
自民党は野党時代2012年4月に憲法改正草案とその解説をネット上に発表し、そこには、彼らの「本音」を表現しました。自民党は天賦人権論には立たず、国賦人権論に立つと公言します。国賦人権論とは、簡単に言えば、人権というのは、政府が国民に対して与えてやっているかぎりのものなのだから、国民は政府の言うことを聞けという主張です。自民党は、近代の人権思想の成果も、権力の横暴から人権を守るための憲法という立憲主義も捨てますというのです。しかし、これでは「日本は近代国家をやめます」と世界に宣言しているようなものです。それでいいのでしょうか。