苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

国のあり方について(その6)・・・皇室の伝統とは

6.皇室の伝統とは

 自民党の国会議員西田昌司氏の「主権は国民にはない。日本が長年培った伝統と歴史に主権がある。」という発言が物議を醸している。氏は西部邁と親交があり、保守主義の父エドマンド・バークの信奉者であるそうで、その観点から日本国憲法を批判して、その改正を訴えている。しかし、バークの『フランス革命省察』を読んで、彼の保守主義を日本の長い歴史に適用して筆者なりに考えてみると、西田氏の属する自民改憲草案は「日本が長年培った伝統と歴史」にかなったものとは思えない。ここに少し試しに書いてみる。
 

(1)エドマンド・バーク保守主義
 バーク(Edmund Burke、1729-1797)は『フランス革命省察』において、伝統的慣習を単純なデカルト的な合理主義によって否定・破壊したフランス革命を非難する。その結果、社会は無規範状態に陥って混乱をきわめ、国民会議はでたらめな政治をしている。バークが予見したところでは、フランス革命はさらに混乱をきわめ、多くの人々を苦しめ最後は軍人支配になってしまうということだった。事実、フランス革命は最後はナポレオンによる帝政となってしまい、ヨーロッパ全土を侵略することになる。
 バークは一方で、英国に起こった名誉革命(1688−89)を擁護する。名誉革命とは、共和制の後、王政復古で立てられた王ジェームズ2世が王位から追放され、ジェームズ2世の娘メアリー2世とその夫でオランダ総督ウィリアム3世(ウィレム3世)が英国王に即位したクーデター事件である。これにより「権利の章典」が発布された。
 なぜバークはこれを評価するのか。それは、英国には1215年のマグナ・カルタ以来、国王の権限を領主・臣民が制限するという600年の伝統があり、国王がこの伝統を破ったことに対して起こされたのが名誉革命であるからである。名誉革命はその600年間におよぶ伝統に基づく本来の王の立場に立ち返らせるための革命であった。
 政治には複雑な要素が絡み合っているから、一部分を見て急激な変化を加えてしまうと、他のところに不具合が生じてかえって多くの人々を苦しめることになる。国家と民族の長年の歴史に培われた伝統にかんがみながら、徐々に修正を加えていくべきだというのが、バークの保守的政治思想である。


 ここからは筆者の感想。革命理論を振りかざす人々はルソー主義にせよマルクス主義にせよ、歴史や伝統に基づく秩序をくつがえして、ゼロからすべてを構築しなおすことをよしとする。そして、じょじょに修正していくという立場を生温い「修正主義」として軽蔑するのである。ルソーの革命思想の淵源にはデカルトの合理主義がある。デカルトは『方法序説』で「犯罪や闘争のもたらす不都合に迫られて、やむをえずおいおいに法律を作ってきた民族は、寄り集まった最初から思慮の深い立法者の憲法を守り通した民族ほど立派に開けて行けぬだろう。」と言っている。
 だが、フランス革命ロシア革命毛沢東革命、ポルポト革命などの急進的革命を観察すると、その結果は周知のごとくお寒いかぎりである。いや、背筋が凍るというべきか。人権、平等、民主といった価値を非難するバークの保守の思想には違和感を覚えつつも、彼のフランス革命批判には一定の価値があると思われる。格別、急進的革命には独裁と大量粛清と思想統制が必然的にともなって来たことを見ると、「殺してはならない」という第六戒にそむく点で肯定することはできない。また、急進的革命の全体主義は、国家崇拝という偶像崇拝に傾斜している点では、「あなたにはわたしのほかにほかの神々があってはならない」という第一戒に抵触しているとも思われる。彼らが軽蔑する漸進的な修正主義こそ聖書的ないのちを重んじる社会改良のありかたではなかろうか。


(2)改憲派の憧れる皇室の伝統とは
 2012年4月27日に出された自民の改憲草案を読むと、改憲派が憧れているのは大日本帝国憲法にあることが一見してわかる。前文には次のようにある。「日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家であって、国民主権の下、立法、行政及び司法の三権分立に基づいて統治される。」「天皇を戴く」という表現は、どうやら天皇国民主権の上に位置づけられていることを意味するようである。というのは、天皇憲法擁護義務からはずされているからである。日本国憲法では、「第99条 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。」とあるのを、自民改憲案は「第102条 全て国民は、この憲法を尊重しなければならない。2 国会議員、国務大臣、裁判官その他の公務員は、この憲法を擁護する義務を負う。」と変更している。
 自民改憲案では、文言上「国民主権」という表現が出てくるけれども、国民の基本的人権は「公益及び公の秩序」によって制限されるべきだとされていて、骨抜きにされている。基本的人権尊重と国民主権はワンセットなので、結局、国民主権も内実がなくなっている。
「第12条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力により、保持されなければならない。国民は、これを濫用してはならず、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない。」「第13条 全て国民は、人として尊重される。生命、自由及び幸福求に対する国民の権利については、公益及び公の秩序に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大限に尊重されなければならない。」
 表現の自由も制限される。
「第21条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、保障する。
2 前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない。」
 財産権も制限される。
「第29条 財産権は、保障する。
2 財産権の内容は、公益及び公の秩序に適合するように、法律で定める。この場合において、知的財産権については、国民の知的創造力の向上に資するように配慮しなければならない。 
私有財産は、正当な補償の下に、公共のために用いることができる。」
 明治維新後の現人神天皇を主権者とする国家神道体制は、大日本帝国憲法教育勅語そして軍人勅諭を柱としていた。これが西田昌司氏たち改憲派の「日本が長年培った伝統と歴史」である。だが、国家神道体制というのは、王政復古の大号令が1868年、大日本帝国憲法発布が1889年、先の敗戦が1945年であるから、最長に見積もって77年間、憲法制定からは56年間のことにすぎない。あの現人神天皇を中心とする国家神道体制が「長い歴史に培われた皇室の伝統」ということができるであろうか?


(3)ほんとうの皇室の伝統
*明治より前
 飛鳥・奈良時代から平安時代末まで、天皇は古代世界でしばしば見られる古代の祭司王のひとりであり祭祀権と統治権を持っていた。天皇家の宗教についていえば、飛鳥時代から聖徳太子聖武天皇に代表されるように大陸から輸入された仏教がその中心だったが、仏教絶対というものでもなく神仏習合的なものだった。統治権についていえば、平安時代8世紀末には、すでに、その実権は藤原氏に移って行き、天皇は象徴的立場になっている。
 さらに鎌倉時代には、統治権は貴族から武士に決定的に移った。鎌倉時代から江戸時代末までおよそ700年間にわたって幕府が統治権を握り、古代の王家であった天皇は祭祀権のみを持ち、律令文化の伝統の体現者として機能してきた。祭祀権というのは、宗教的なものばかりではなく、律令制の伝統的価値に基づく名誉・肩書きを与える権威を意味している。たとえば、信長は右大臣、秀吉は関白太政大臣、家康以下徳川家の棟梁は征夷大将軍という律令制度におけるタイトルを天皇から授与されて、自らに箔をつけている。どの時代にあっても、権力者というものは、富と権力だけでは統治に安定が得られないので、伝統的権威によって箔をつけようとするものなのである。
 簡単すぎるけれど、こうして振り返れば、天皇が平安期に実質的に統治権を離れ、鎌倉期以後は決定的に祭祀権のみの象徴的立場になってから江戸時代の終わりまで、実に700年ないし1000年以上の伝統がある。
 宗教に関して言えば、天皇家の宗教は飛鳥時代以来、仏教中心であって国家神道などに凝り固まってはいない。上野の寛永寺も17世紀以来住職は皇族が務めていた。もっとも神道も排したわけでなく神仏習合的な態度であった。統治権を離れ奈良・平安の律令文化と伝統の体現者という象徴的立場こそ基本的な皇室の伝統である。

    束帯姿の明治帝

    京都御所


明治維新〜敗戦
 明治維新で「王政復古」し、皇室典範大日本帝国憲法発布1889年から敗戦1945年まで、天皇は現人神とされ、祭祀大権・政治大権・軍事大権を持った。その住まいも、塀の向こうに住む「天子さま」ではいけないということで、絶対専制君主らしく巨大な江戸城に移された。天皇の本来の礼装は束帯姿であるのに、大元帥としての軍服姿を着せられた。欧米列強に伍するために強力な中央集権国家を作り上げるために、キリスト教に対抗し、キリスト教のまねをしてにわか作りされた国家神道を背景としている。
 伊藤博文は、大日本帝国憲法原案で明治21年6月18日、次のように述べている。
「抑歐洲ニ於テハ憲法政治ノ萌芽セル事千餘年、獨リ人民ノ此制度ニ習熟セルノミナラス、又タ宗教ナル者アリテ之ガ機軸ヲ爲シ、深ク人心ニ滲潤シテ人心之ニ歸一セリ。然ルニ我國ニ在テハ宗教ナル者其力微弱ニシテ、(中略)我國ニ在テ機軸トスヘキハ獨リ皇室ニアルノミ。」
http://www.geocities.jp/somohompo/meiken/shiryo.html#m210618a
(そもそも欧州においては憲法政治のが芽生えてから千年余り、ただ人民がこの制度に習熟しているだけでなく、またキリスト教というものがあってその機軸をなしており、深く国民の心にしみこんでいて一致させている。ところが、わが国においては宗教の力がたいへん弱弱しくて、(中略)わが国において機軸とすべきはただ皇室があるだけだ。)
 国家神道は、欧米列強におけるキリスト教の代用として伊藤博文が考案した国民の精神的機軸としての国家宗教であった。飛鳥時代以来、わが国では神仏習合が普通だったが、国家神道体制の下、神仏分離が図られ、廃仏毀釈運動による破壊が全国の寺院を荒廃させた。国家神道体制の下、大日本帝国憲法教育勅語軍人勅諭明治憲法をもって列島住民は急速に愛国心に染め上げられ、富国強兵政策の駒とされていく。日清戦争後、日本は戦争に次ぐ戦争をして、最終的には先の戦争で一敗地にまみれ、天皇を三大権をもつ現人神とする国家神道体制は瓦解した。明治に造られた国家神道体制における現人神天皇のあり方は、長い伝統とは似ても似つかないものであり、その期間は80年足らずである。

   軍装の明治帝

   江戸城


日本国憲法下で
 1945年日本国憲法が発布されて、天皇は政治大権・軍事大権を手放し、象徴天皇という本来の姿に戻る。祭祀権については、日本を軍国主義に暴走させた危険な国家神道に対処するために、政教分離原則にのっとって皇室祭祀は私事とされた。かつての祭祀権のうち宗教性の強い部分は皇室祭祀とされ、宗教性の少ない国事・栄典授与といった働き残されていると解される。

 
(4)日本国憲法における天皇の位置づけをバークの保守主義的観点からの評価する
 明治維新政府は、平安時代から江戸時代までの統治権を離れた奈良・平安の律令文化と伝統の体現者という象徴天皇の伝統に背いて、軍事・政治・祭祀の大権を手中にした専制君主・現人神・大元帥としての天皇を立てた。これが国家神道体制である。そして、国は戦争に次ぐ戦争へと暴走してゆく。
 現人神天皇のありかたは、欧米列強に対抗するために無理やり作られた国家神道によるものであって、千年にわたる象徴天皇の伝統から逸脱したものであったから、無理があった。近代日本が暴走して軍国化し数十年で破綻してしまったのは、歴史の必然であると言えるのではなかろうか。
 むしろ今日の国民の統合を象徴し、国事のみを執り行い、栄典を授与するという伝統文化の体現者としての天皇のほうが、よほど天皇の千年の歴史と伝統にかなっていて、安定感がある。国柄にかなった象徴天皇というありかたの安定性は、1000年の歴史が証明している。

 日本国憲法政教分離原則(20条)を強く打ち出している点はどうだろうか。政教分離など西洋的なものであって、そんなもので日本の国家神道体制を縛ることがおかしいというふうに自民の改憲派は考えるのであろう。2012年4月27日の自民改憲案は、20条に第3項を加えて政教分離原則を緩めている。これは国家神道体制のキーポイントである靖国神社国家護持に道を開くことを目指していると思われる。

3 国及び地方自治体その他の公共団体は、特定の宗教のための教育その他の宗教的活動をしてはならない。ただし、社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えないものについては、この限りでない。

 しかし、よく考えれば、この政教分離原則が明確に打ち出されていることは、歴史的に見てまことに賢明なことなのである。以下に説明を試みる。政教分離原則はどこから来たのか。ヨーロッパにはキリスト教会が誕生して以来、千数百年にわたる教会と国家のせめぎあいがあった。特に16世紀に宗教改革があった時代、ヨーロッパのあちこちに絶対王政が成立し始めて、国と国とに絶えず緊張関係があった。しかも、当時はどの国も国家宗教のかたちをとっていたために、国と国の争いが即カトリックプロテスタントの戦い、宗教戦争となってしまった。真理の探究のために神学論争がなされることには意義があることだが、それは祈りのうちにあくまでも言論においてなされるべきことであって、決して暴力に訴えるべきではない。ところが、教会が国家と密接に結びついていると、教義の違いが武力と武力の衝突ということになってしまう。その結果、ヨーロッパでは、シュマルカンデン戦争、ユグノー戦争、八十年戦争、三十年戦争で多くの血が流され荒れ果てた。そこで、三十年戦争の終わりにヨーロッパ諸国はウェストファリア条約を結び政教分離原則を打ち立てた。
 国家神道は、明治時代初期に急造された国家宗教である。伊藤博文は、列強諸国の精神的機軸はキリスト教にあると見たので、列強と対峙するために皇室を機軸とみなすべきだとして国家神道をつくった。国家神道は、絶対王政の時代のヨーロッパの国家宗教を模したものであった。その結果、何が起こったか。ちょうどかつてヨーロッパにおいて宗教戦争が起ったのと同じように、国家神道祭政一致原則をもっていわば宗教戦争を惹き起こし、全国で廃仏毀釈運動を展開して仏教寺院を弾圧し、後には諸派神道キリスト教も弾圧していくことになる。さらに、擬似「神の国」の拡大をはかって八紘一宇を理想とするアジアを侵略し、侵略先に神社をつくり現地人たちに神社参拝・天皇遥拝を強制した。
 このように国家神道の出自とふるまいを考えると、国家神道体制の悲惨に対する処方箋として、ウェストファリア条約が歴史の苦い経験から編み出した歴史的な知恵「政教分離原則」を適用したことは、まことにふさわしいことだったと言えよう。ウェストファリア条約の「政教分離原則」は絶対王政時代の国家宗教に対処するための解毒剤であったから、それは遅れてやってきた日本の絶対王政の国家宗教に対しても有効であった。日本国憲法第二十条(政教分離原則)は、いわば日本におけるウェストファリア条約なのである。


結論


 自民改憲派は明治の国家神道体制を伝統と見なして、「日本を取り戻す」と主張している。だが、これはバークの保守主義の的外れな適用である。明治の国家神道体制の天皇は、象徴天皇の千年にわたる歴史と伝統から逸脱した、むしろ革命的な異形の天皇像だからである。だから自民改憲案では「日本を取り戻す」ことにはならない。
 他方、むしろ日本国憲法における象徴天皇の位置づけは、平安時代ないし特に鎌倉時代から江戸時代までの700年ないし1000年の歴史に培われた伝統的な天皇像に近いように思える。しかも、日本国憲法には、政教分離原則というヨーロッパの歴史の経験から得た知恵を、異形の明治の国家神道体制に対する適切な解毒剤として加えられている。このようなわけで、日本国憲法における象徴天皇の位置づけがむしろ長い歴史と伝統の知恵にかなった本来のものであるように思われる。
 ただし、皇室は今なお明治期ににわか作りされた国家神道における皇室祭祀を行っていて、もともとの神仏習合(宗教はなんでもOK)に戻っていない点には問題があり、明治の国家神道がなお雌伏している。あの廃仏毀釈を行った牙を残しているわけである。その結果、皇室に属する人々には信教の自由はない状態であるし、非常に宗教色の濃い大嘗祭は莫大な国費を投じて行われている。皇室に属する人々に、信教の自由を保障することが肝要。


*この文章まとめて西田昌司さんに送ってみようかと思っている。