苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

人間として生きる―人間、その偉大と悲惨―

<注> 1994年に南佐久郡小海に開拓伝道を始めて以来、月刊「通信小海」を書き続け、南佐久郡全域に新聞折り込み配布し続けて269号になります。このたび「通信小海読者の会」のみなさんが小海町公民館に会場を用意してくださって、講演をさせていただきました。主催者側は十名、二十名といった集いだろうかと思っていましたら、子どもからお年寄りまで多くの方が集ってくださいました。花束まで贈呈されて、少し照れくさかったのですが感激でした。


 

2016年2月27日 「通信小海読者の集い」講演
於 小海町北牧楽集館

 「人間にその偉大さを示さないで、彼がいかに禽獣にひとしいかということばかり知らせるのは危険である。人間にその下劣さを示さないで、その偉大さばかり知らせるのも、危険である。人間にそのいずれをも知らせずにおくのは、なおさら危険で ある。しかし、人間にその両方を示してやるのは、きわめて有益である。人間は自己を禽獣にひとしいと思ってはならないし、天使にひとしいと思ってもならない。そのいずれを知らずにいてもいけない。両方をともに知るべきである。」(パスカル『パンセ』L121,B418)

はじめに 
 22年間、「通信小海」に、家庭、憲法原発、環境問題、教育問題・・・といろいろなことを書いてきましたが、この際、これらすべての記事の背景にあることについてお話したいと思い、「人間として生きる」と題してみました。
思想家たちは「人間とはなにか?」という問いに、「人間は社会的動物である」とか「人間は考える葦である」とか答えてきました。「人間とはなにか?」という問いに、どのように答えるかはとても大事なことです。小学校三年生のころと記憶しますが、散髪屋さんで開いた少年マガジンの最初のカラーページの特集で、インドで発見された狼少女アマラとカマラの話を読んだことがあります。メス狼にさらわれて育てられた赤ん坊が、数年後発見されたところ、彼女たちは四つんばいで走り、狼の遠吠えをするようになっていたという話です。たとえ人間として生まれても、自分が狼だと思いこんでいれば、その人は狼のような生き方になってしまうのだということでした。
 人は自分が何者であると考えているところにしたがって、生きるのです。だから、「人間とは何か?」という問いにどう答えるかはとても大事なことです。また、それはとりもなおさず「私とは何者か?」という問いです。

1.人間として生きることを妨げるもの
(1)科学主義
 私たちの住む社会の風潮が、人間とはなんであるかをわからなくしています。一つは科学的合理主義です。その見かたによれば、人間は機械の一種にすぎないというのです。17世紀フランスにいたデカルトという哲学者は、人間は精神と物体の綜合であると言っていました。人間は半分は機械だといったのです。ところが18世紀フランス革命の時代に、人間の精神もまた機械の作用に過ぎないという考え方をするド・ラ・メトリという思想家が出てきて「人間機械論」という本を書きました。人間機械論は今日まで流行していて、たとえば、慶応大学の教授だった渡辺格氏は「愛だとか、真理だとかいう観念など、大脳における電気信号の明滅にすぎない。無意味なものだ。」というふうなことを主張しています。
 このように現代人の多くは、人間をコンピュータ付きのロボットのように教え込まれているのではないでしょうか。ですから、人をコンピュータ付きロボットのように扱い、自分をもコンピュータ付きロボットのように扱うのです。コンピュータの価値は情報処理能力の大小で測られるように、偏差値をもって人間の価値を測定します。コンピュータ付きロボットが壊れて生産性がなくなれば捨ててしまうように、人間も生産性がなければ粗大ごみ扱いする。科学的合理主義では人間の人間としての価値はなくなってしまいます。科学は有用なものですが、科学主義は人間を機械のように見る有害な思想的偶像礼拝です。


(2)拝金主義(経済第一主義)
 今日支配的なもう一つの思想的偶像礼拝は、経済第一主義です。拝金主義ともいいます。ギリシャの昔話でミダス王がディオニュソスを助けたとき、ほうびとして、「触れるものは何でも黄金に変える力」をもらいました。ミダスは喜んで、テーブル、水差し、コップ、椅子など何でもかんでもさわりまくりました。黄金のテーブル、黄金の水差し、黄金コップ、黄金の椅子に囲まれて悦に入っていると、娘がそこにやってきました。「おとうさん。なんてきれいなんでしょう。」そういうと娘は父親の腕に飛び込んできました・・・。
 この恐ろしい話は拝金主義(マモニズム)を戒める話なのでしょう。拝金主義者は、すべてのものを金銭に換算すようになります。主イエスが「あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」と言われたように、金銭というものは神になりかわろうとする性質を持っています。お金の偶像化です。しかし、必ずしも他人事とは言えないかもしれません。誰かから贈り物をもらったとき「これいくらかな?」と考え、あの人に自分に対する愛は3000円、この人の愛は5000円、そしてこの人の愛は1万円と換算してしまう。そういう考え方をするようになっているなら、あなたもミダス王と同じく拝金主義の虜になっています。「カネで買えないものはない」というのが拝金主義です。しかし、人生で一番大事なものは金では買えないのです。
 貨幣経済がなければ物々交換で不便ですから貨幣は有用なものです。しかし、拝金主義、言い換えると経済第一主義は、人間が人間として生きることを妨げる有害な思想的偶像崇拝です。


(3)国家主義(国賦人権論)
 今日、戦前を「美しい国」と呼んで戦前の体制に戻そうという動きがあります。教育勅語を復活し、富国強兵政策を夢見る人々です。こうした動きを背景として、2012年4月27日、自民党憲法改正草案を発表しています。その憲法改正草案では、現憲法の核心というべき「第十章最高法規 第97条」基本的人権条項が全文削除されています。

「第十章 最高法規
第九十七条  この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。 」

ここに明瞭に自民党改憲草案の意図が現れています。彼らは、基本的人権を否定したい、あるいは、そこまで言わないとしても、国権が人権に優越するものであると考えています。改憲草案にかかわった片山さつき議員が、「国民が権利は天から付与される、義務は果たさなくていいと思ってしまうような天賦人権論をとるのは止めよう、というのが私たちの基本的考え方です。国があなたに何をしてくれるか、ではなくて国を維持するには自分に何ができるか、を皆が考えるような前文にしました!」と発言しています。
 天賦人権論についてのなんともお粗末な曲解です。人が天に生かされていると知れば、その人は権利だけでなく、必然的に自分の存在の尊さと義務にも目覚めるものです。彼らの主張は「政府が国民に権利を与えてやっている。だから、国民は政府の言うことに従え。」という国賦人権論です。西田昌司議員は言いました。「主権は国民にはない。日本が長年培った伝統と歴史に主権がある。」「伝統と歴史」とは何を意味するかといえば、いわゆる「国体」という国家神道の考え方です。明治以降、日本は国家神道体制下で「教育勅語」で国民を教育し、富国強兵政策を推進して、戦争に明け暮れて暴走し最後は瓦解したのでした。その戦争でアジア2000万人、日本人が350万人死にました。国家は正しく用いれば有益な道具ですが、国家を至高の価値とする国権論は、人間が人間として生きることを妨げる有害な思想的偶像礼拝です。
 科学は神様が人を幸福にするためにくださった知恵ですが科学主義は有害、貨幣は便利な社会生活に有用ですが拝金主義は有害、国家は人間が幸せに生きるために有用ですが国家主義は有害です。アルコール中毒とは英語でアルカホリズムといいますように、「主義」というのは「中毒」とも訳せるのですね。科学中毒、お金中毒、国家中毒はいずれもよろしくないのです。


2.「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」
(1)福澤諭吉「天は人の上に人を造らず」・・・天賦人権論
 日本人のだれもが知っている基本的人権にかかわる言葉は、福澤諭吉学問のすすめ』の冒頭でしょう。「それ天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずといへり」とあります。(福澤諭吉とて時代の子ですから、脱亜入王論など限界があることは事実ですけれども、それはそれとして大事なことを語っています。)
 ところで、『学問のすすめ』の冒頭を注意深く読むと、「・・・といへり」とあります。このことばは諭吉が自分で考え出したのではなく、このような有名なことばがあるのだといっているのです。諭吉が参照したのは、アメリカ合衆国独立宣言(1776年)の冒頭です。

 「われわれは、以下の事実を自明のことと信じる。すなわち、すべての人間は生まれながらにして平等で あり、その創造主によって、生命、自由、および幸福の追求を含む不可侵の権利を与えられているということ。こうした権利を確保するために、人々の間に政府が樹立され、政府は統治される者の合意に基づいて正当な権力を得る。そして、いかなる形態の政府であれ、政府がこれらの目的に反するようになったと きには、人民には政府を改造または廃止し、新たな政府を樹立し、人民の安全と幸福をもたらす可能性が 最も高いと思われる原理をその基盤とし、人民の安全と幸福をもたらす可能性が最も高いと思われる形の権力を組織する権利を有するということ、である。(以下省略)」

 当時のアメリカ大陸の人々はイギリス政府の支配下で重税を課せられ、「生命、自由、および幸福の追求」という基本的人権をイギリス政府によって脅かされていました。そこで、彼らはイギリス政府に対して独立を宣言するにあたって、創造主がくださった基本的人権を根拠としたのです。国民は政府に軽々しく反抗すべきではないけれども、政府が神の戒めにあからさまに叛いている場合には、国民はその政府に抵抗する権利(抵抗権)があるとしたわけです。
 諭吉がとくに感心したのは、「すべての人間は生まれながらにして平等で あり、その創造主によって、生命、自由、および幸福の追求を含む不可侵の権利を与えられている」という部分です。江戸時代、日本列島の住民は「士農工商」という身分制度に縛られ、明治時代に入ってもなお華族・士族・平民さらに新平民などといった身分制度が残っている日本社会において、創造主の前に「すべての人間は生まれながらにして平等」なのだという宣言は驚くべきものでした。諭吉はその創造主をひらがなで「ごっど」と呼んでいます。つまりGodです。
 諭吉は家訓にあたる「ひびのをしえ」明治4年10月27日に次のように書いています。

「世の中に 父母ほどよきものはなし。父母よりしんせつなるものはなし。父母のながくいきてじやうぶなるは、子供のねがふところなれども、けふはいきて、あすはしぬる もわからず。父母のいきしには、ごつどの心にあり。ごつどは父母をこしらえ、ごつどは父母をいかし、また父母をしなせることもあるべし。天地万物なにもかも、ごつどのつくらざるものなし。子供のときより、ごつどのありがたきをしり、ごつどのこゝろにしたがふべきものなり。」

また、「ひびのをしえ 二へん」には次のように述べています。

だい一   てんとうさまをおそれ、これをうやまい、そのこゝろにしたがふべし。たゞしこゝにいふてんとうさまとは、にちりんのことにはあらず、西洋のことばにてごつどゝいひ、にほんのことばにほんやくすれば、ざうぶつしやといふものなり。(ざうぶつしゃ:造物者)

 福澤諭吉は、「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずといへり」ということばを米国独立宣言から得たわけですが、その背景には「その創造主によって、生命、自由、および幸福の追求を含む不可侵の権利を与えられているという」事実があることを理解していました。
 国家は、創造主が人間に与えた生命、自由、および幸福の追求という基本的人権を保証するための道具であって、目的ではありません。

(2)すべての人は「神のかたち」に造られた
聖書は、天地万物の創造主が、人間を「神のかたち」において造られたのだと教えています。ここに人間の尊厳の根拠があります。職業、貧富、老若、性別、民族、国籍といったあらゆる区別を超えて共通する人間の尊厳の根拠です。
①アダム

「神である【主】は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きるものとなった。」(創世記2:7)

神が最初に造った人間の名はアダムと言います。アダムはヘブル語の普通名詞で「人」という意味でもあります。それはアダムが土(アダマー)から造られたからです。たしかに人間が死んで土に埋めておけば土に帰ってしまいます。70キログラムの人の場合、水52.5kg,炭素12.5kg,カルシウム1.4kg,リン700g,硫黄175g、アルミニウム、鉄、銅など微量。価格にして1000円程度のものだそうです。私は今ちょうど千円くらいですが、あなたはおいくらでしょう。
 けれども、神が人にいのちの息を吹き込まれたので、人間は尊い存在です。「いのちの息」とは魂とも訳されることばです。人間は神に魂を吹きこまれたものとして、神と人格的・霊的交流が可能です。人間は有限ですが、無限の創造主と魂が通じているということです。

②「われわれ」
 もうひとつ人間の創造にかんする記事が創世記にあります。

「神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちにおいて、われわれに似せて。・・・(中略)」神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちにおいて彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」(創世記1章26−27節)

 聖書は、「われらの神、主は唯一である」と教えています。ところが、不思議なことにその唯一の神が、ときおり「われわれ」と自称なさいます。唯一の神のうちには、「われわれ」とおっしゃる父と子(イエス)と聖霊の人格の交わりがあるのです。神は孤高の孤立した神ではなく、愛の交わりの神です。
そして、新約聖書コロサイ書1章15節によれば「神のかたち」というのは、御子イエスのことです。この愛の交わりの神が、私たち人間を、もともと御子イエスに似た者として私たち人間をお造りくださったのですから、私たち人間は、互いに辱めたり憎んだりするのでなく、互いに尊敬し互いに愛し合うべきものとして造られたのです。
 マザー・テレサがこんなことを話していました。「私は道端に倒れている人のうちにキリストを見ていたのです。」マザーは、イエス・キリストの「この小さい者たちにしてくれたのは、私にしてくれたのである」という言葉を大切にしていました。そして、飢えた人、病気の人、貧しい人の中に常にイエスを見ていたのです。藤田寛さんのお米集めの働きの背景には、聞いたことはないのですが、同じ思いがあるのかもしれません。


3.人間の悲惨
(1)王座から転落した王
 人間は、もともと「神のかたち」である御子イエスに似せて造られたので素晴らしいものです。しかし、今、私たちの世界では、殺人事件のニュースやテロや詐欺のニュースなど聞かない日はありません。私たちの家庭のこと、職場や地域の人間関係を振り返っても、なにかしら不和があったりするものです。どうも本来の素晴らしい姿を失っているといわざるを得ません。
 中国思想の中には、性善説を唱えた孟子性悪説を唱えた荀子という人がいます。それぞれの人間の本性は善であるという主張と、人間の本性は悪であるという主張の両方がそれなりの説得力を持っているというのが人間の不思議なところです。まるで、この謎に対して答えるかのように、パスカルは「人間の悲惨は、王座から転落した王の悲惨である」と言いました。つまり、本来人間は善であったが悪に落ちてしまった。だから、人間は「このようであるべきだ」という善に対する憧れをいだいてはいるけれども、現実には悪の中にもがいているのだということです。人間は理想と現実の間に引き裂かれています。
 「人間にその偉大さを示さないで、彼がいかに禽獣にひとしいかということばかり知らせるのは危険である。人間にその下劣さを示さないで、その偉大さばかり知らせるのも、危険である。人間にそのいずれをも知らせずにおくのは、なおさら危険で ある。しかし、人間にその両方を示してやるのは、きわめて有益である。人間は自己を禽獣にひとしいと思ってはならないし、天使にひとしいと思ってもならない。そのいずれを知らずにいてもいけない。両方をともに知るべきである。」(パスカル『パンセ』L121,B418)


(2)罪のありさま(ローマ1章から)
 人間は本来、「神のかたち」である御子に似た者として造られ、神を愛し、隣人を自分自身のように愛する者として成長すべきでした。けれども、そこから転落してしまったのです。その人間の悲惨について、使徒パウロは次のように述べています。
①人間は創造主を見失い、さまざまな被造物を神々に仕立ててこれにひざまずき、心を支配されてしまうのです。これを偶像崇拝と言います。

 「彼らは神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなりました。 彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、 不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。」(ローマ1:21-23)

 偶像崇拝の対象は人や動物だけではありません。先にお話したように、科学主義は科学を絶対視する偶像崇拝であり、拝金主義はお金を神のように崇める偶像崇拝であり、国家主義は国家を神の位置に据える偶像崇拝です。科学もお金も国家も、人間が創造主を愛し隣人を愛して幸福に生きるために有益な道具でしょうが、その道具を目的にしてしまうと、有害な偶像崇拝となってしまいます。

②諸々の対人的な罪
 人生のまことの中心である創造主を見失った人間は、さまざまな罪を犯すようになりました。パウロは言います。

「彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。 彼らは、そのようなことを行えば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行っているだけでなく、それを行う者に心から同意しているのです。」

 さまざまの罪はありますが、すべての罪に共通している性質があります。それは利己主義ということです。私たちは自分がどれほど利己的な者であるかということを認めることが必要です。たとえば、あなたのおうちの客間に1万5000円の花瓶があったとしましょう。ところが、子どもに掃除をさせていたらガチャンと割ってしまいます。すると、「なんであなたは不注意なの!」と怒るでしょう。そのくせ、自分がうっかりその壷を割ってしまったら、「なんでこんなところに壷を置いてあるんでしょう。」とか「まあ、いいか」と自分を赦してしまいます。私たちは情けないほど利己的で不公正です。


むすび
 人間は本来、神の似姿として造られた尊い存在です。しかし、神に背を向けてしまったがために、惨めな状態に陥っています。三つのことを結論としたいと思います。
 第一に、人間は本来「神のかたち」において造られた素晴らしい存在であることをまず覚えたいと思います。私たちはお互いに「神のかたち」において造られた者として、尊敬しあうことが人間関係の基本です。
 第二に大事なことは、しかし、私たちは誰しも自己中心で利己的な性質が拭い去りがたくあるのだという現実をわきまえることです。ですから、個人生活で人間関係でトラブルがあったなら、まずは自分自身が自己中心だったのではないかと反省することが賢明です。
また、政治制度についていえば、制度を設計するにあたって、権力が一人の総統や一つの党派にのみ集中させてはなりません。人間はどこまでも利己的なので、独裁は右であれ左であれ悲惨な結末を招きます。権力を制限する工夫が制度設計に必須です。その仕組みが立憲主義であり、三権分立の原理なのです。
そして第三に、人間創造のモデルである御子イエス・キリストは、そんな悲惨な状態に陥った私たち人間を救うために、人としての性質を帯びておよそ二千年前にこの世の来られました。最初のクリスマスの出来事です。私たちが再び創造主とともに生きる道を備えてくださったのです。
エスは言われました。

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」

追記2016年3月2日>
 福澤諭吉脱亜入欧であって、正しい意味での天賦人権論者ではないという批判があります。その通りであると思います。それを言えば、米国独立宣言にしたって、これを起草した人々もまた、米大陸の先住民の人権のことを配慮しているとは思えません。彼らは、英国政府に対して自分たちの人権の主張をしたのみです。同様に、脱亜入欧を唱える福澤がアジアの人々の人権を念頭に置いたとも思われません。福澤にせよ、米国独立宣言の起草者にせよ、私たちと同様に、利己的で自己中心の罪人です。また、かれらが、己の神の前における罪を認めてキリストを神の御子と信じたキリスト者であったかといえば、むしろ、デイスト(理神論者)であった可能性が高いと思います。しかし、こうしたことは差し引いたとしても、その限界の中で、聖書に真理のひらめきを見出して、その時代のなかで表現したことは、彼らの功績と言ってよいと思います。