苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

神の怒り

 学生時代ーもう四十年も前ーに読んだ、三木清『人生論ノート』に「怒について」という文章がある。その冒頭を下に引用してみる。

 Ira Dei(神の怒)、――キリスト教の文獻を見るたびにつねに考へさせられるのはこれである。なんといふ恐しい思想であらう。またなんといふ深い思想であらう。
 神の怒はいつ現はれるのであるか、――正義の蹂躪された時である。怒の神は正義の神である。
 神の怒はいかに現はれるのであるか、――天變地異においてであるか、豫言者の怒においてであるか、それとも大衆の怒においてであるか。神の怒を思へ!

 しかし正義とは何か。怒る神は隱れたる神である。正義の法則と考へられるやうになつたとき、人間にとつて神の怒は忘れられてしまつた。怒は啓示の一つの形式である。怒る神は法則の神ではない。
 怒る神にはデモーニッシュなところがなければならぬ。神はもとデモーニッシュであつたのである。しかるに今では神は人間的にされてゐる、デーモンもまた人間的なものにされてゐる。ヒューマニズムといふのは怒を知らないことであらうか。さうだとしたなら、今日ヒューマニズムにどれほどの意味があるであらうか。
 愛の神は人間を人間的にした。それが愛の意味である。しかるに世界が人間的に、餘りに人間的になつたとき必要なのは怒であり、神の怒を知ることである。
 今日、愛については誰も語つてゐる。誰が怒について眞劍に語らうとするのであるか。怒の意味を忘れてただ愛についてのみ語るといふことは今日の人間が無性格であるといふことのしるしである。
 切に義人を思ふ。義人とは何か、――怒ることを知れる者である。

  17世紀のソッツィーニ、19世紀のシュライエルマッハー以来の人間主義的な自由主義神学者たちは、今日にいたるまで神の怒りを知らない。神の御子が、私たちの罪に対する神の怒りを宥めるための供え物となるために人となって十字架にご自分をささげられたことがわからない。いや、おそらくこれは近世・近代のみの現象ではあるまい。新約聖書にすでに、こうある。「十字架のことばは滅びに至る人々には愚かである」と。