苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ローズンゲン10月9日  悔いる神?

ヨエル2:13b

口語訳
主は恵みあり、あわれみあり、
怒ることがおそく、いつくしみが豊かで、
災を思いかえされるからである。


新改訳
主は情け深く、あわれみ深く、
怒るのにおそく、恵み豊かで、
わざわいを思い直してくださるからだ。


新共同訳
主は恵みに満ち、憐れみ深く、
忍耐強く、慈しみに富み、
くだした災いを悔いられるからだ。

 悔い改めて主なる神に立ち返れというすすめのなかで、主がいったん執行したわざわいを思いなおしてくださるから、という。「神が悔いる」というのは、神の不変性と矛盾するのではないか、という神学的議論が昔からあるところである。これはヨエル書だけの現象ではなく、創世記6章の大洪水の記事にもこうある。「  6:5 【主】は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。 6:6 それで【主】は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。」
 また、サムエル記第一にも「15:10 ・・・【主】のことばがあった。 15:11 「わたしはサウルを王に任じたことを悔いる。彼はわたしに背を向け、わたしのことばを守らなかったからだ。」」とある。だが、興味深いことに同じ章のなかに「15:29 実に、イスラエルの栄光である方は、偽ることもなく、悔いることもない。この方は人間ではないので、悔いることがない。」とある。
 主なる神は悔いる、だが、主なる悔いることはない。これは永遠の神が、時の中に生きる人間のことばで人間にわかるように、ご自身をお伝えくださるところに生じる現象なのであろう。「ことばは人となって私たちの間に住まわれた」ことに通じること。そういえば、嵐のガリラヤ湖で、主イエスは伝道生活にくたびれて舟のともに枕して眠っておられた(人性)が、弟子たちにたたき起こされるとふきすさぶ嵐に向かって「黙れ静まれ」と全能のお言葉でこれを静めてしまわれたことがあった(神性)。
 悔いながら生きる私たちに、神は歩み寄って語り、ともに生きてくださる。