苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

礼拝は神にふさわしいことが肝心

 新改訳2017は全体的にはよく練られた翻訳だと思い、感謝していますが、それでも、残念ながらここはいただけません、というところがあります。

 

 ローマ書12章1節後半を新年度の聖句にしたいと思ったのですが、新改訳2017の「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。」の「あなたがたにふさわしい礼拝」という翻訳は、いただけませんね。「あなたがたの、適切な(理にかなった)礼拝」が直訳です。「ヒューモーン」は属格ですから「あなたがたの」なので。もし「あながたに相応しい礼拝」であれば、「ヒューミーン」となっているはずです。ここの意味は、「あなたがたが、神にささげるのにふさわしい礼拝です」ということです。

 そもそも礼拝というものは、神様のみこころにかなっていること、つまり、神のみこころにふさわしいこと、神様にふさわしいことが肝心なことであって、礼拝をささげる人間にふさわしいかどうかは二の次のことです。礼拝は、神様にささげるものですから、人間の側の自己満足でなく、神様に喜んでいただけることが肝心なのです。

 新共同訳はいろいろと問題のある翻訳だと見ていますが、ローマ12章1節に関しては新共同訳が正解です。「これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」とシンプルで正確です。

 関連して考えると、人間中心の礼拝の考え方、つまり、人間を喜ばせようとする礼拝の考え方は結構ありがちなのではないかと思います。「今日の礼拝は恵まれた」とか「恵まれなかった」という表現を聞いた記憶ががありますが、これは人間が満足するのがよい礼拝でだという人間中心の考え方の現れではないでしょうか。礼拝において、神の前の礼拝者である私たちはほんとうは何を吟味すべきなのでしょうか。

「私は、きょう、心から神を畏れ、神を愛して主を賛美できたでしょうか?」

「私は、神を畏れて注意深く、悔い改めと従順な心をもって、主のみことばとその解き明かしに聞くことができでしょうか?」

「私は、自分の感謝と献身の心をもって、主に喜ばれるささげものをすることができたでしょうか?」

 こうしたことこそ、礼拝に関してまず吟味すべきことです。