苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

自由と平等

 今日は2月11日の集いに出かけてきました。思想信条の自由を守るという趣旨のつどいでした。講演をうかがったのですが、その内容は、現政権は憲法改正をスケジュールに入れて、アメリカの下請け戦争準備をしているということ、そして、対外戦争をするために国内の反対運動を抑え込まねばならないので、治安維持法の復活としての共謀罪法を成立させたのだということでした。人を共謀罪で告発するためには、その人の言動を監視する必要があり、現代ではツタヤカードとか図書館貸出カードとかIC定期券とか、そしてインターネットが情報源になっているということでした。こんなわけで、戦争になれば思想信条は制約されるのだから、平和がなんとしてもたいせつなんだというわけで、9条を守ろうということでした。
 治安維持法による思想信条弾圧の実例として、プロレタリアート作家小林多喜二の虐殺事件について紹介されました。時の特高警察によって、聞くに堪えない残虐な拷問の末に、多喜二は殺されてしまったのでした。しかも、その実行者たちは戦後、処罰されるどころか、それぞれに出世して教育長になったり、東京の何区かは教えてくれませんでしたが、区長にまでなったそうです。ドイツとイタリアでは、戦後になって、戦前のファシスト政権のことを被害者に謝罪して、国家賠償をしたそうですが、我が国では一切していないとのこと。

 まあ、ここまではどこかで聞いたことがあるような話でした。けれど、もう一人、初めて聞いたプロレタリアート詩人の詩が紹介され、その最後の部分に「インターナショナル」の歌が出てきて、それを講師がメロディをつけて歌ったのです。その場の人々の中からも歌う声が聞こえました。そして世界の民衆と連帯をという結論でした。なーんだほとんど共産党の人たちの集会だったのか、とがっかりしました。

 わけもなく共産主義をめざす人たちを毛嫌いしているわけではありません。むしろ共産党員の中に尊敬すべき良心的な方たちを複数知っています。では、どういう違和感かというと、共産主義が抱えている本質的欠陥について、まだ何も反省していないのかということです。フランスにおけるジャコバン派の革命の暴走以来、ソ連、東欧諸国、中国、北朝鮮、モンゴル、カンボジアなどでの共産党政府の末路はなんだったのか、ということです。かつて高い理想を掲げて専制君主制を打倒したとたん、今度はプロレタリアート独裁を唱える共産党政府自らが特権階級となって専制的な政治を行って粛清と称しておびただしい犠牲者を出したことについて、反省するところはないのか、という失望と違和感です。日本共産党が主張するように「ああいうのは、本当の共産主義ではなかったのだ。ほんものは我々だ。」で済ませてしまっているのでしょう。でも、率直に言えば、なんだか独善的だなあという印象を受けるだけです。

 聖書から考えれば、人間と人間のつくるありとあらゆる党派というものは、抜きがたく利己的であるという原罪を負っています。ですから、王であれ天皇であれ主席であれ総統であれ書記長であれ大統領であれ首相であれ、どんな指導者であっても、権限を集中するならば、独裁に陥って暴走して多くの悲惨を国民にもたらすのは必然です。自民党共産党公明党立憲民主党社民党もみんな原罪を負っています。だから、ジョン・ロックモンテスキューは、国家権力は分散して、たがいに牽制し合うという仕組みを持つべきだとしました。独裁は、資本主義社会におけるものであっても、共産主義社会のプロレタリアート独裁でもダメなのです。

 社会の理想には、自由と平等があります。しかし、両立はむずかしい。人間の経済活動を自由に放置すれば、金持ちが経済活動をしてますます金持ちになり、貧乏な人はますます貧乏になります。つまり不平等になります。現代日本格差社会の根本原因は、規制緩和と称する改革で、経済活動を自由に放置した結果でしょう。逆に、この不平等を抜本的になくすには多数の貧乏人が集団で政府を作り、強力な警察力を背景として、金持ちから金を奪い取って分配しなければなりません。共産主義革命です。つまり、平等を抜本的に実現するには、強制力を持って自由を制限することが必須なのです。ロシア革命でも毛沢東革命でもポルポト革命でも、反革命分子粛清と称しておびただしい血が流されました。しかも、その社会で共産党は特権階級となり、その体制を維持するために強力な思想統制をしました。

 どんな国家体制であっても、ある程度世論のコントロールをしています。けれども、特に共産主義においては、思想統制を強くしなければ体制を維持できません。なぜなら、自由主義社会は人間だれもが利己的だという情けない現実に根差していますが、共産主義は誰もが利他的であるべきだという高い理想を目指しているからです。国民をその理想に洗脳しなければ共産主義社会は維持できませんから、共産主義社会においては思想統制は非常に強力なものとせざるをえないのです。

 共産主義者小林多喜二を虐殺した政府は悪いに決まっています。しかし、共産主義者が政権を転覆し権力を独占すれば、資本主義者に対して同じことをはるかに熱心にするでしょう。自らがそういう恐るべき原罪を負っていることを自覚しない理想主義は、危ういのです。

  こんなわけで、自由と平等は二者択一すべきものではなく、バランスをとりつつ、妥協しつつ、牽制しあいつつ、議論しつつ両方を徐々に時間をかけて実現していく政治の仕組みが肝要なのです。権力の分散と議論をもって理想へと時間をかけて忍耐強く一歩一歩進んでいく修正主義こそまっとうな方法です。そういう意味で、自由市場主義で格差が拡張する一方の今の日本では、たしかに共産党は小粒でもピリリと辛い山椒としての大事な役割があるということになるのでしょう。山椒が多すぎたら食べられませんけれども。
 

<追記>
 マルクスユダヤ人で旧約聖書に精通していたということですが、共産主義というのは、聖書から神と神の前の人間の罪の現実を否定したところに生じた思想だということなのかなあという感想をもちます。