苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

キェルケゴール『死に至る病』で、おなかがよじれる  

 きょうは北海道聖書学院での現代神学の授業で、キェルケゴールの『死に至る病』の第一編の最初の文章をIさんに朗読してもらったのですが、「関係する、関係である、関係という、関係・・・」と連発されて、あまりのわからなさがうけて、ツボにはまって読めなくなってしまいました。やむなく、続きをKさんに読んでもらったら、Kさんは最初すらすら読んでいたのですが、そのうちまたもストップ。もう、クラス中、おなかがよじれるほど笑ってしまいました。

「人間は精神である。精神とは何であるか? 精神とは自己である。自己とは何であるか?自己とは自己自身に関係する所の関係である。すなわち、関係ということには関係が自己自身に関係するものなることが含まれている──それで自己とは単なる関係でなしに、関係が自己自身に関係するというそのことである。

人間は有限性と無限性との、時間的なるものと永遠的なるものとの、自由と必然との、統合である。要するに人間とは統合である。統合とは二つのものの間の関係である。しかしこう考えただけでは、人間はいまだなんらの自己でもない。

 二つのものの間の関係においては関係それ自身は否定的統一としての第三者である。それら二つのものは関係に対して関係するのであり、それも関係の中で関係に対して関係するのである。たとえば、人間が霊なりとせられる場合、霊と肉との関係はそのような関係である。これに反して関係がそれ自身に対して関係するということになれば、この関係こそは積極的な第三者なのであり、そしてこれが自己なのである。」

 
 難解ですが、一応、授業ですから、ここ何日か繰り返し読んでいるうちに、私は少しわかってきた感じなので、それを説明しました。
 それにしても、キェルケゴールでこんなに笑える授業になるとは想像しませんでした。もちろん、私も涙が出るほど笑いました。キェルケゴールがみたら、なんと思うでしょうかね。


追記 2017年9月26日>
死に至る病』は最初がこんなふうなので、先に進まないままに断念してしまう人が多いようですが、先に進めば少し面倒でもちゃんと読める文章です。内容は、絶望を論じて、それが罪であることです。『死に至る病』の続編は『キリスト教の修練』という本です。

 私の単なる思い付きの仮説ですが、キェルケゴールが本論冒頭でこんな書き方をしたのは、彼が読者として想定した知識人たちに、「お、読んでみるかな」と食いつかせるためではないでしょうか。マタイ福音書の冒頭に系図があるのは、ユダヤ人に「お、読んでみるかな」と読ませるためであり、ヨハネ福音書冒頭に「初めに、ロゴスがあった。」と哲学的表現があるのは、きっとギリシャ文化圏の人々を引き付けるためであったのと同じように。