苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

主の名「ある」説と「なる」説



 会堂前の花壇にクロッカスが花を咲かせました。

出エジプト3:14

新改訳 「わたしは、『わたしはある。』という者である。」
岩波訳 「わたしはなる。わたしがなるものだ。」

 主がモーセイスラエル救出の指導者としてお召しになったとき、モーセは主の名を問うた。それに対して主が教えてくださった名。古代の七十人訳(ホ・オーン=the being)以来、「わたしはある」という訳なのだが、近現代の註解書には「ある」というより「なる」ということであるというコメントがたいてい書かれている。岩波訳はそうした見解を活かそうとした訳。だが、近代の註解者のいうことが正しいのかどうか、筆者にはわからない。
 こういうことは、たいてい大きな辞典に書かれてしまうと権威ある定説として流布してしまうものなのだ。前からなんとなく思っているのは、万物は「ある」のではなく、絶えず反対物の対立と調和によって「なる」ものなのだというとらえ方をしたヘラクレイトスのことである。万物を「なる」をもって把握しようという思想は、ヘーゲル弁証法哲学として巨大な体系となり、19世紀当時のドイツの知識階級に支配的な影響を与えた。近代聖書学もヘーゲルの影響を色濃く受けているので、実は、それが「なる」説の隠された背景にあるのではないかという気がしている。まだ確かめたわけではない。単なるメモである。
ただ、「なる」説に疑問を感じるのは、ヨハネ福音書で主イエスがこの燃えるしばの箇所をおそらく意識しつつおっしゃったことばが、ego eimi(I am)であることが特別な意味をもっていたことと、この「なる」説は調和するのだろうかという点である。聖書を単なるバラバラの書物の集成にすぎないと考える還元論者にとっては何も問題ないだろうけれど、聖書全体がすべて神の霊感による一つの書であるとする者にとっては問題である。

エスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。「アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」(ヨハネ8:58)

 イエスが彼らに、「それはわたしです」と言われたとき、彼らはあとずさりし、そして地に倒れた。(ヨハネ18:6)