苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

永遠のロゴスが

ヨハネ1章1−3節

1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
1:2 この方は、初めに神とともにおられた。
1:3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。


1. 初めにロゴスがあった


 イエス様がどういうお方であるかを、まるで聖書的背景のない人にどのように伝えることができるか。このことは、どの時代の、どの地域の伝道者にとってもたいせつな課題でした。江戸時代末期1837年の翻訳聖書ギュツラフ訳のヨハネ福音書は冒頭を
「ハジマリニ カシコイモノゴザル、コノカシコイモノ ゴクラクトトモニゴザル、コノカシコイモノワゴクラク。ハジマリニ コノカシコイモノ ゴクラクトトモニゴザル。」
と訳しました。ギリシャ語のロゴスということばを「カシコイモノ」つまり、畏るべきものと訳し、神を「ゴクラク」と訳したわけです。なんとかして、当時の日本人のことばのなかで「ロゴス」に該当するもの、「テオス(神)」に該当するものをさがして四苦八苦したことがわかります。今日でも、初めてヨハネ福音書を読んだ日本人が「初めに、ことばがあった」ということばだけ読んでも、よくわからないでしょう。
 ですが、ヨハネが、このような表現をしたのには、想定した読者がギリシャ語を使う文化圏にいる人々と、ヘブル語の文化圏の人でした。ギリシャ文化圏というのは、ヨハネ福音書が書かれた当時では地中海世界の東半分を意味していて、イスラエルでもギリシャ語は普通に使われていたそうで、ユダヤ人の多くもギリシャ語を使うことができました。このギリシャ文化圏、へブル語文化圏両方の人々に通じることばでもって、ヨハネは神のひとり子を紹介しているのです。
 そのために、彼はロゴスということばを用いました。当時用いられたギリシャ語訳旧約聖書詩篇33:6につぎのようにあります。

33:6 【主】のことば(ロゴス)によって、天は造られた。
 天の万象もすべて、御口のいぶきによって。

 一方、ギリシャ文化圏でいうと、「ことば」と訳されている語ロゴスは、古代ギリシャの哲学者ヘラクレイトスが世界を構成している論理、理法という意味で使い、1世紀にはストア派というポピュラーな哲学がやはり世界をなしている根本的原理をロゴスと呼んでいました。哲学者たちは、この世界を冷静に観察してみると、この世界が単なる偶然が偶然に重なって出来上がったものでは決してなく、あきらかに何かすばらしい論理あるいは理法によって支えられているということを見出しました。彼らは、この世界・宇宙全体を成り立たせ支配している「理法」のことをロゴスと呼んだのです。
 天を見上げれば太陽や月や星の正確な運動を観察できます。そこに理法があるからこそ、何年何月何日の何時には日食が起きると言ったことが計算できるわけです。また、地上の微生物から巨大な動植物にいたるまで生命の営みを支配する生命の法則もあります。また、数の世界にもある論理があるので、古代ギリシャユークリッドという人は数学の体系を論理的に構築することもできました。ミクロからマクロまでの見える世界、また、数・物理・化学・生命・法・道徳といった世界のさまざまな次元におけるさまざまな法を支えている、根本的なロゴスが確かに存在することは、哲学者たちが世界を観察してわかったことでした。
 また、そうした世界を理解することができる人間の理性も、その宇宙全体を支えているロゴスに基づいています。だからこそ、この世界を知ることができます。古代の哲学者たちは聖書を知りませんでしたが、被造物のうちに観察される創造主の知恵の現れを、ちゃんと見出すことができたのでした。ローマ書1章20節に「 神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。」とある通りです。神様がこのように被造物を通して語りかける啓示をふつう自然啓示といいます。
 ヨハネが、「初めにロゴスがあった」といって、イエス様を紹介しようとした理由は、一つはギリシャ語訳旧約聖書に神がことば(ロゴス)をもって世界を造られたとあり、かつ、ギリシャ文化圏に住む人々にとっては、宇宙を成り立たせている根本的なロゴスがあるという常識があったからです。「世界が出現する以前、永遠のはじめからロゴスがあって、そのロゴスに基づいて、この世界は造られ、今も成り立ち営まれていることを、あなたがたは知っているでしょう。そのお方こそ、私がこれからご紹介しようとしているキリストなのです」、とヨハネは言っているのです。


2.ことばは神とともにあった。・・・ことばは永遠の人格

 以上のように、聖書を知らない人々であっても、神様の被造物をもちいての啓示から、世界を支配するロゴスの存在を認めることができました。それはたとえばモナ・リザという作品を見て、ある程度その作者ダ・ビンチがどんな人だったか想像できるようなものです。けれども、自然啓示だけでは決してわからないもうひとつの真理が、ヨハネ福音書には啓示されています。

「1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
1:2 この方は、初めに神とともにおられた。」

「この方は、初めに神とともにおられた」というのは、「ことばロゴス」が人格でいらっしゃるということを表しています。この文は「神に向かって(pros)おられた」と訳すこともできる表現が用いられています。ロゴスと神は差し向かいでいらっしゃったというのです。これは、同じヨハネ福音書1章1:18では「父のふところにおられるひとり子の神」と表現されています。父なる神と、きわめて親しい間柄で、愛の交流をもって永遠の昔からいらっしゃるのが「ことばロゴス」なるお方なのです。
人格というのは、知性と感情と意志をもったお方という意味です。物を理解し、喜怒哀楽があり、ある決断をして行動をするお方であるということです。ストア派の哲学者たちは、この世界のミクロなるものからマクロなるものまで、見える世界も見えない世界をも支配しているロゴスがあるということを見出しました。しかし、彼らはそのロゴスが非人格的なモノであって、人格であることを悟ることはできませんでした。それが哲学者による探究の限界だったのでしょう。
しかし、聖書は「この方は初めに神とともにおられた」というように、ロゴスは非人格的なモノや法則ではなくて、生ける人格であると啓示しているのです。それは、天の父と愛の永遠の愛の交流をもっていらっしゃるお方なのです。「父のふところにおられるひとり子の神」なのです。
 父なる神と愛の交わりについて、イエス様は、天の父に対する祈りの中でちらりと漏らしていらっしゃいます。ヨハネ福音書17章5節と24節

「今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。」

「父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。」


3.ロゴスによって万物は造られた


 ヨハネは続けます。

1:3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

 このみことばの背景には、ストア派のロゴス論だけでなく、旧約聖書があります。関係している聖書箇所は一つは創世記、もう一つは箴言です。
創世記には、万物が神のことばによって創造されたという記事があります。

1:3 神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。
1:6 神は仰せられた。「大空が水の真っただ中にあれ。水と水との間に区別があれ。」
1:9 神は仰せられた。「天の下の水が一所に集まれ。かわいた所が現れよ。」そのようになった。
1:11 神は仰せられた。「地が植物、すなわち種を生じる草やその中に種がある実を結ぶ果樹を、種類にしたがって、地の上に芽ばえさせよ。」そのようになった。
1:14 神は仰せられた。「光る物が天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。しるしのため、季節のため、日のため、年のためにあれ。1:15 また天の大空で光る物となり、地上を照らせ。」そのようになった。
1:20 神は仰せられた。「水には生き物が群がれ。鳥が地の上、天の大空を飛べ。」 1:21 神は、海の巨獣と、種類にしたがって、水に群がりうごめくすべての生き物と、種類にしたがって、翼のあるすべての鳥を創造された。神はそれを見て良しとされた。
1:24 神は仰せられた。「地が、種類にしたがって、生き物を生ぜよ。家畜や、はうもの、野の獣を、種類にしたがって。」そのようになった。
 そして、最後に人間をことばでお造りになりました。
1:26 神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」
1:27 神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。


以上のように、神はことばでもって、光に始まって、天体、動植物、そして最後に人間にいたるまで、すべてを権威あることばによって創造なさったのです。

 また、ことばロゴスであるひとり子のことを表しているもう一つの興味深い旧約聖書の箇所が箴言8章です。ここではロゴスは「知恵」と呼ばれています。箴言は、知恵というのは単に生活の知恵とか人生の知恵ということではなくて、人格的なお方であって、知恵は「わたし」と自分のことを語り始めます。不思議な個所です。味わってください。

8:22 【主】は、その働きを始める前から、そのみわざの初めから、わたしを得ておられた。
8:23 大昔から、初めから、大地の始まりから、わたしは立てられた。
8:24 深淵もまだなく、水のみなぎる源もなかったとき、わたしはすでに生まれていた。
8:25 山が立てられる前に、丘より先に、わたしはすでに生まれていた。
8:26 神がまだ地も野原も、この世の最初のちりも造られなかったときに。
8:27 神が天を堅く立て、深淵の面に円を描かれたとき、わたしはそこにいた。
8:28 神が上のほうに大空を固め、深淵の源を堅く定め、 8:29 海にその境界を置き、水がその境を越えないようにし、地の基を定められたとき、 8:30 わたしは神のかたわらで、これを組み立てる者であった。わたしは毎日喜び、いつも御前で楽しみ、 8:31 神の地、この世界で楽しみ、人の子らを喜んだ。


「主」「神」とあるのは父なる神、「わたし」とあるのはロゴス、イエス様のことです。この箇所を読むと、私は幼いころに読んだ絵本の一つのページを思い出します。真ん中に暖炉が赤々と燃えていて、右には父親がロッキングチェアに腰かけていて、その足元で男の子が積み木で何かを造っているのを穏やかな顔で眺めているのです。
 ロゴスである神、のちに人となって二千年前にこの世に生まれてきてくださったイエス様は、父なる神との愛の交わりに生きるお方であって、御子は父の愛のなかでこの被造物世界を創造なさったのです。私たちの生かされているこの世界は、本来、永遠から永遠にいます父なる神と子なる神の愛の結晶ともいうべき世界でした。その愛は聖霊です。


むすび
 私たちは、二千年前に人として来てくださったイエス・キリストというお方が、本来どのようなお方でいらっしゃるのかということを、ヨハネ福音書の冒頭から味わってきました。
 このお方は「初め」からいらっしゃるお方、つまり、永遠から永遠にいますお方です。永遠から永遠に変わらぬ真実なお方でいらっしゃいます。この世のものはすべて変化し、現れては消えてしまうはかないものですが、このお方は変わらず真実なお方です。
 またこのお方は、哲学者たちが考えた冷たい創造の原理といった非人格的な法則のようなモノではなくて、父なる神との愛の交わりの中に生きておられる、人格的なお方なのです。私たちの祈りに耳を傾けて理解してくださり、喜びも悲しみも怒りもわかってくださるお方です。また、罪に打ちひしがれている私たちを憐れんで、天の御座をあとにして地にくだってくださったお方です。
 私たちはイエス様に従います。なぜならこのお方は世界を創造なさった主であるからです。私たちはイエス様に感謝します。なぜなら、このお方は私たちをご自分の似姿として造ってくださったからです。私たちはイエス様が罪に悩む私たちを愛して、この世界に来てくださったからです。