苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

アリとキリギリス

ルカ15:1,2および11−32(特に後半)


 今日は、放蕩息子のたとえの後半です。まず大きな枠組みを確認します。当時のユダヤの律法の先生たちは、取税人・罪人を毛嫌いして寄せ付けませんでしたが、主イエスは彼らのことをも歓迎したのです。律法学者・パリサイ人たちは文句を言いました。「この人は罪びとたちを受け入れて、食事までいっしょにする。」そこで、主イエスはたとえ話をされました。父は主イエスを表し、放蕩者の弟は取税人や罪人を指しているのに対して、勤勉な兄はパリサイ人・律法学者のことを指しています。

1.兄の人となり

 弟が父親から財産をふんだくって飛び出してしまった後も、きまじめな兄は、毎日畑仕事に精を出していました。「だいたい弟の奴は子供のころから怠け者なのだ。またこんな馬鹿をやって・・・。奴が、いなくなってせいせいした。」と思っていたわけです。兄息子は勤勉で、何事も完璧にやり遂げないとすまない質なのですが、弟はその反対なのでした。弟が帰ってきたこの日も、朝暗いうちから家を出て畑仕事に精を出し、仕事を終えて家路についたのは星が出てからです。ところが、窓の灯火が見えてくると、家の方から久しく聞いたこともなかった音楽や踊り、笑い声が聞こえてきます。
 兄は、「もしかして弟が帰って来たんじゃないか」と察したようです。彼は弟の顔など見たくもありませんでした。自分から家に入ろうともしないで、召使を呼び出して聞きました。「いったい、何があった。」紅潮した召使は息をはずませて、「弟さんがお帰りになったんですよ!」と言いましたが、不機嫌そうな兄の顔を見て、声の調子を落として、「無事な姿をお迎えしたというので、御父様が大喜びでまるまる太った子牛をほふらせて、飲めや歌えの大宴会でございます。」と続けました。
 「あんな奴が帰ってきたからと行って、なんで歓迎する必要があるんだ。」と怒った兄は家に入ろうともしません。暗闇の中で家に背を向けて立っているのです。召し使いはおろおろして主人に兄息子のようすを告げに行きますと、今まで喜びの叫びに満ちた宴会場に、暗い影が差してしまいました。弟は自分が悪いのだから、とうつむいています。宴会の喜びも消え失せてしまったのです。
 そこで、父親は出てきて暗闇のなかに独り立っている兄をいろいろとなだめてみるのです(28節)。こんな父の振る舞いも、父親の権威が高かった当時の社会では珍しいことだったようです。威厳ある父親が放蕩して帰ってきた息子に駆け寄るということも珍しいことであれば、また不機嫌になった息子をなだめるためにわざわざ宴の席をはずして出てきたのです。けれども、不機嫌な兄息子は聞く耳をもちません。それどころか、弟を非難し、父親が不当であるとなじるのです。29節、30節。

15:29 しかし兄は父にこう言った。『ご覧なさい。長年の間、私はお父さんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。 15:30 それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。』

 兄息子からすれば、まじめに働いている自分こそは、父親からたくさん報酬を受ける権利があり、身代を食いつぶした弟などは一銭もやらずにたたき出すべきなのだということなのです。あんな奴は野垂れ死にしても自業自得だ、と。
 これに対して父親は答えます。31、32節。

15:30 それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。』
15:31 父は彼に言った。『子よ。おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。 15:32 だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。』」

32節は「お前の弟」と強調しています。「おまえは、『あなたの息子のためには』というが、あれはほかでもない。お前の弟ではないか。行方不明だったお前の弟が帰ってきたんだ、喜ぶのが当然のことではないか」というのです。父親としては、「事情はどうあれ、どうしてお前には、行方知れずの自分の弟がかえってきたのを喜べないのだ?!お前はきまじめで働き者だが、なんでこんな自然の情愛が欠けているんだ?」といいたいのです。
 この心を堅く閉ざしてしまった兄の言動に、父親は、深く心を痛めています。この子は人間として大丈夫なのか?と心配なのです。父親の心痛は、ここ数年家出した弟のための心痛にも勝るとも劣らないものがあったでしょう。父親の気持ちを代弁すれば、「わたしは兄息子のことを愛しているのに、どうしてあの子には届かないのか?」と当惑しているのです。


2.生真面目な兄の罪

 聖書は、罪と言えば、あの放蕩な弟のようなあからさまな異邦人的罪と、もうひとつのタイプは兄のような生真面目な人の内に潜むユダヤ人的罪があることを鋭く指摘しています。

(1)不機嫌という罪
 まず兄は、弟が帰ってきたこと、父がそれを寛容にも赦したことによって不機嫌になりました。そうして、彼の不機嫌のために召し使いはおろおろし、せっかくの喜びの宴会も暗くなってしまったのです。 不機嫌は罪でしょうか。いわゆる不道徳な罪のような姿をしていないために、私たちは不機嫌というものが罪であることを見失いがちです。しかし、不機嫌は罪です。しかも相当に悪質な罪なのです。不機嫌になることによって、私たちは周囲の人からも喜びを奪い取ってしまい、周囲の人々を不幸にするからです。しかも、不機嫌という罪が悪質なのは、不機嫌になっているときに、私たちは「自分は何も悪いことはしていない」と感じていて、「あいつが悪い」と心のなかで人や状況を非難していることです。自分がしている罪にまるで無自覚なのです。


(2)非難する罪
 不機嫌になった兄は、弟と弟を赦した父親を非難しました。29節、30節。
15:29 しかし兄は父にこう言った。『ご覧なさい。長年の間、私はお父さんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。 15:30 それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。』
 非難するという罪は、サタン(悪魔diabolos)的な罪です。悪魔diabolosは「訴えるdiaballo」ということばからできています。ディアボロスとは、「告発する者」という意味です。ヨブのことを悪魔が神に訴えたという場面があったでしょう。
 兄の言葉は一見するともっともな主張に聞こえます。しかし、よく考えてみれば、この弟を赦すか赦さないかは父親の問題です。兄が非難するには当たりません。兄が裁くにはあたらない。兄は己の分を越えているのです。
 よく読んでみると、兄の言っていることは、結局、カインがアベルを妬んだようなねたみから出ているのです。そして、そのねたみはエゴイズムと自己憐憫から出ています。「自分にはなぜ小羊一匹くださらないのか?どうしてあんな弟には気前よくしてくださるのに、私にはどうしてけちなのだ?」


(3)愛の欠如
 そして人を非難する罪の恐ろしいことは、自分自身を霊的な盲目にしてしまうということです。人を非難している時、自分自身が犯している罪がわからなくなってしまいます。
 他人を非難する時、私たちは自分の目にある太い梁に気づきません。自分は絶対正しいと思うから他を非難します。しかし、兄息子は、実際には戒めのうちで最も重要な戒めを破っていました。それは、彼が父を憎み弟を憎んでいるということです。
「だから、すべて人をさばく者よ、弁解の余地はない。あなたは他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです。」(ロマ2:1)
 兄息子は弟は親不孝でどうしようもないやつであると思っていますが、自分は親孝行で何一つ悪いことはしていないと自負しています。「ご覧なさい。長年の間、私はお父さんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。」とまで言っているほどです。しかし、実際には弟が父の心を悲しませたと同様、兄もまた父の心を悲しませているのに、それに気がつかないのです。兄息子は父の悲しみがわからない。


 放蕩な弟と同様、勤勉な兄もまた罪人の姿です。表面的には、勤勉でまじめですが、実は彼もまた失われた罪人なのです。会社で学校で信用があり、それなりにまじめに生きてきたでしょう。 まじめな人であると言われ、そう自負もしています。けれども、愛があるでしょうか。家庭生活で、妻に、夫に、姑に、嫁に、息子に、娘に、兄に、弟に、妹に対して愛があるでしょうか。愛がなければどんな勤勉も神の御前には何の値打ちもありません。


3.蟻ときりぎりす

 どうして、あの真面目な兄はこのような冷酷な心になってしまったのでしょう。
 32節「(お前の)弟が帰ったのだから喜ぶのは当然ではないか!?」と父親は言います。けれども、兄には、その自然的な愛がなくなってしまっています。父は兄に対して格別高尚な愛を求めているのではありません。「汝の敵を愛せよ」と言っているのではありません。自分の弟、幼い頃から生活を共にしてきた弟、幼い日に一緒に遊んだ弟、お前の血のつながった弟、その弟がやっと帰ってきたのだから、喜ぶのは当然だ、自然のことだというのです。しかし彼は「情知らず」になっています。「情知らず」とは自然的情愛の欠如のことです。 ローマ1:31で「情知らず」ということばについて、高橋三郎さんは注目すべきことを述べておられます。
「『自然の情愛にかけている』(アストルゴス)の背後にはストルゲーという、たとえば親子の間に見られるような、生まれつきの愛情を表現することばがあり、これが欠如している人、つまり人間らしさを失っていることが、ここで指摘されているのである。律法的宗教人にこういう類型の人がよく見かけられる。」(ロマ書講義)

 どうやら兄の生き方の原理が、彼を自然的な情愛さえも欠落した人格としてしまったのです。それは律法的宗教人の生き方です。まじめに、神の前に立派に生きて、そうすることによって、神の前に自分を正しい者とすることができると考える人です。兄は言いました、「私は戒めを破ったことは一度もありません。」
 イソップの寓話「ありときりぎりす」を御存じでしょう。勤勉に夏の間働いた蟻は冬になっても困りませんでした。しかし、夏の間歌を歌って遊んで暮らしたきりぎりすは冬が来ると飢えてしまいます。そして蟻の所に、ご飯を恵んでもらいに行くのです。すると蟻はきりぎりすを冷たくあしらいました。そして最後に、「勤勉な蟻さんに学びましょう。バカなキリギリスになってはいけません」という教訓が付いているのです。
 けれども、驚きました。『成長』という教案本で、こんな一言を読みました。「蟻ときりぎりす」の本来の教訓は「勤勉と傲慢」ということだというのです。蟻は勤勉に働いたが、その働きを自分の誇りとし傲慢になってしまった。それで、あわれんでやるべき飢死寸前のきりぎりす君を、冷淡に裁いて死に追いやったことが非難されているというのです。
 小さな子どもに、アリとキリギリスの話を初めて読んで聞かせたあと、「どう思った?」と聞くと、たいてい「アリさん、意地悪いわないで、キリギリスさんにご飯を上げたらよかったのに。」と答えるそうです。これが愛の神に造られた人間の正常なこころなのでしょう。
 でも、蟻のように勤勉な日本人の99パーセントは「蟻ときりぎりす」の話を聞いて、「蟻さんは偉いわね、きりぎりすのようになってはだめですよ。」と教えられてきました。近年、政治家が「自己責任」と言ったころから、ますます日本社会は異常になっています。私たちも兄息子のような過ちに陥っているのです。勤勉はよいことです。しかし、勤勉ゆえに傲慢になることがあるのを警戒すべきです。傲慢こそが、神がもっとも嫌われる罪、アダム以来の罪の根本的性質です。勤勉に働けたら、それも、健康を与え仕事を与えてくださった神の恵みによることを感謝する謙虚な心が大事です。


4.神の用意された救い−−恵みによる救い

 家の中は喜びにあふれた宴会騒ぎなのに、兄は暗闇のなかで家に背を向けて立っています。その姿は、「ただイエスを信じれば救われるなどと、虫の良い話があるものか?!」とつぶやきながら、神に対して心を開かないでいる人の姿です。
 そんな兄をあわれんで父が家から出てきました。「どうしたお前?」といろいろとなだめすかしているのです。席を外してなだめに来た父のへりくだりを見なければなりません。ああ、もったいないことを、と兄は気づくべきでした。  自分の誠実さ真面目に生きてきたという自負のために、心高ぶってしまった人間のために、キリストは自ら遜って救いの道を開いてくださいました。二千年前、栄光に満ちた神が人となってこの世に来て下さいました。そして、十字架の辱めと苦しみまでも忍んで下さったのです。
 不機嫌、情知らず、そして、その根っこにある傲慢という恐るべき罪とその呪いから私たちを救うのは、主イエス・キリストにある恵みによる救いだけです。「私の傲慢という罪のために、主イエスはあの十字架について死んで下さったのだ」と悔い改めることが必要です。
悔い改めとは悪人が善人になることではありません。悔い改めとは神に白旗を掲げることです。「私はあなたの前に罪人です。愛すべき人を愛せません。赦すべき人を赦すことができません。親切にしてあげるべき人を見過ごしにしてきました。・・・」と。主キリストは、あなたの罪のためにも、十字架で呪いを受けて、そして死の中からよみがえって下さったのです。