苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

「正典的聖書解釈」の来歴にかんする目見当

 ウィトゲンシュタイン後期における「言語ゲーム」という考え方が、近年のリベラル神学の正典的聖書解釈の背景にあるという件についての、目見当のたんなるメモ。

1.デカルトの還元主義
 デカルトは『方法序説』で「部分の総和イコール全体」という考え方を提示している。そうすると、複雑なことがらを理解するには、それをいくつかの単純な要素に切り分けて、それら単純な要素を理解してこれらを足せば全体が理解できることになる。これを要素還元主義あるいは単に還元主義という。
 還元主義者は「AはBでしかない」という。「人間はたんぱく質のかたまりでしかない」、「思考は脳における電気信号の明滅でしかない」と言ったりして、実は何もわかっていないのに、わかった気分になっている。
 還元主義は近代において支配的となったので、聖書学もその影響を受けることになった。つまり、近代聖書学は、聖書全体を一冊の書という見方を放棄し、さらに各書の本文をいくつかの特徴によって分解して、文書資料がその背景にあると想定する文書資料説を唱え、自由主義神学の世界の中では定説とされるようになった。還元主義的に言えば、「創世記はJ資料とE資料とD資料とP資料の集成でしかない」。
 だが、「玉ねぎとは何か?」と一生懸命皮をむいていったら、なにもなくなってしまう。還元主義は、個別に分解ばかりしているうちに、全体の意味を見失う。実際の玉ねぎの玉ねぎとしての意味は、個と全体の関係性において生じている。


2.教会から切り離されて
 近代聖書学がもたらした不幸のもうひとつは、それが聖書を教会から切り離して大学での研究対象にしてしまったということである。本来、聖書は、神がご自身の民である教会という共同体にお与えになった契約文書であるのに、そこから離れて、仮説上のいくつかの文書資料に分解されて、ああだこうだと論じられる対象とされた。
 そして、そういう大学神学部におけるいわゆる「学問的成果」が、今度は神学教育や書物を通じて教会へと流れこんで教会の説教者たちを困惑させ、信仰を弱らせ、確信をもって伝道できなくさせ、教会は弱らされた。聖書は古代オリエントのさまざまの資料のかたまりにすぎないという仮説が、この世にあって苦闘している信徒たちの慰めや励ましになる道理がない。また、古代資料のかたまりにわざわざいのちをかけて生きようとする伝道者はまれだろう。


3.還元主義からホーリズム
 還元主義が行き詰って、全体としての関係性を見るべきだということが医療の世界でしきりに言われるようになったのは、詳しくは知らないが、20世紀半ばあたりからだろうか。医学では専門分化が進んで、内科、外科、精神科、整形外科、眼科とかいうのではすまず、肝臓の専門、消化器系の専門、脳の専門・・・と専門分化が進み、精密化されてきたが、一人の人間の全体が見えなくなった。
 精神的ストレスから胃を病んだ人に、胃薬を与えたり手術をしても、ストレスに満ちた環境の改善や心の持ちようの改善がなされなければ、また胃をやんでしまう。からだと心と生活環境の全体を見なければ、ほんとうの医療にはならない。全体を見るべきだというホーリスティックな方向が大事だと強調されるようになっていく。
 聖書学の世界でも、この空気のなかで見直しが生じてくる。聖書を教会から切り離し、また、玉ねぎの皮をむくような聖書研究をして、聖書を無意味化・無力化してしまった後、教会としてはアカンということになった。聖書を教会の正典として取り戻し、聖書を神が人間に与えた一巻の書として読みたいということになる。
 しかし、これまでの「学問的」な営みをまったく無意味とするのは無節操だし、かっこわるい。そういう読み方をしてもいいのだと根拠付けるなにか哲学的理論はないものか?
 役に立ちそうな概念がウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」という考え方であった。言語は厳密なルールをもって統制されて一つの普遍的・客観的な意味を指すものではなく、同じゲームに加わっている共同体のなかで日常的に使っているものとして通じ合えるゲームであるという。
 言語ゲーム理論という、20世紀最大の哲学者ともいわれる人物の発明を応用して、教会という共同体のなかで通じ合える言語として聖書を位置づけるならば、聖書をバラバラに分解してわけわからなくなる必要もなく、全体として意味ある言葉として用いることができるではないか。ここに正典的聖書解釈が出てきた・・・という風に筆者はとりあえず見当をつけてみている。
 ということだから、正典的聖書解釈における聖書解釈は、そこに客観的普遍的な一つの意味があるということは考えず、読者の側の主観的なさまざまの意味の広がりがあって良いということになる。多元的な解釈。ただし、単なる個人の読者ではなく、ともにゲームをしている共同体としての言語であるから、ある程度の枠はある。

5.福音主義の聖書理解との違い
 福音主義者は、聖書は普遍的・絶対的な真理の啓示された神の言葉であると信じている。サークル内でころころその意味内容も変わりうるような言語ゲームにおける「真理」とは異質のものである。
 正典的聖書解釈というと、聖書をバラバラにせず全体的に読むので、結果的に、福音主義と通じるところが多くなるので、リベラルとの「対話」ができる感じになってくる。しかし、たとえばリベラルにとっては「神」も「真理」も言語ゲームの世界の術語であるから、ゆるやか〜なものだということに当然なってくる。
 だから「対話」するうちに、知らずして影響を受け、福音主義の教会の信仰の土台がなし崩しにされてしまわぬように注意する必要があると思う。
 

以上、単なる見当付けのメモですが、あまり外れていないような気がするので、ここに置いておきます。大はずれだったら、読者の方、教えてください。