「自然」ということばは、「おのずからしかり」と読み下すことができるように、誰かがどうかしたのでなく、おのずからそのような状態にあるという意味である。これはラテン語naturaの翻訳語として採用され、naturaはギリシャ語のphysisの訳語である。大辞林第三版によれば次のようにある。
①人為によってではなく,おのずから存在しているもの。山・川・海やそこに生きる万物。天地間の森羅万象。人間をはぐくみ恵みを与える一方,災害をもたらし,人間の介入に対して常に立ちはだかるもの。人為によってその秩序が乱されれば人間と対立する存在となる。 「 −を破壊する」 「 −の猛威」 「 −を愛する」
②
人や物に本来的に備わっている性質。天性。 「楽しい時には笑い,悲しい時には泣く,それが人間の−だ」
③
〔nature〕 古代ギリシャで,他の力によるのではなく自らのうちに始源をもち生成変化するものの意。ここから人為・作為から区別されたありのままのものの意にもなり,事物に内在する固有の本性ないしは本性的な力の意ともなる。また中世では,被造物一般のことであり,さらに神の恩寵(おんちよう)に対して人間が生まれつき具有するものを指す。
したがって、「自然」という概念は、聖書がいう「天と地」という概念とは本質的に異なっている。聖書においては、「初めに、神が天と地を創造した。」と創世記冒頭にあるように、「天と地」はおのずからしかるものではなく、創造主によって造られ、保持されてこそしかるものである。言い換えれば、創造主が、その存在を望まなければ無に帰するのが「天と地」である。つまり、「天と地」は「自然」ではなく被造物なのである。
「また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。」黙示録20:11
これに対して、「自然」という概念は、聖書的な概念でなく汎神論的な概念である。長年にわたり、自然、natura,physisという用語を神学において不用意に採用してきたことには、問題があると感じているので、一言メモしておく。