苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

召命は変わらず

創世記20章

2016年10月30日 苫小牧夕拝

1.アブラハムの引越し

 「アブラハムは、そこからネゲブの地方へ移り、カデシュとシュルの間に住み着いた。」(創世記20:1)アブラハムはなぜ引っ越したのでしょうか。ソドム滅亡の事件の衝撃がアブラハムにとってあまりにも大きかったからです。当時はまだアブラハムはロトがあの神罰を免れたということを知らなかったのですから、なおのことです。
 空襲の跡のように煙があちらこちらに立ち上る廃墟ソドムを見下ろしたアブラハムは、ロトを失ったことについての慙愧の念にさいなまれたでしょう。主は、あんなに一生懸命祈ったのに聞いてくださらなかったではないか、そして、甥のロトも殺してしまわれたと思ったでしょう。しかし、よくよく思い返せば、ソドムにはたった十人の正しい者もいなかったのでした。アブラハムのうちには、人間の罪深さに対する絶望感、そして、人間の罪に対する恐ろしい神の怒りに対する恐怖に捕えられてしまったのだろうということは想像に難くありません。深い絶望感と虚脱感がアブラハムの魂を支配していました。いわば、神様に対するすねたような心になっていました。
 アブラハムは、ソドムの恐怖とロトの思い出を振り払うように、この地を去りました。また恐ろしい神罰の記憶を振り払うべくカナンの地の南ネゲブ地方に引っ越したのでした。アブラハムはカナンの地の南ネゲブのゲラルで、かつて飢饉のときにエジプトに逃れたときに犯したのと同じ過ちを犯しました。つまり、自分の妻サラを妹と偽って、わが身を守ろうとしたのでした。男として最低の行動でした。その結果、サラの美貌はこのゲラルの地の王アビメレクの目にとまり、サラは王の許に妾として召しいれられることになってしまいます。

「20:2 アブラハムは、自分の妻サラのことを、「これは私の妹です」と言ったので、ゲラルの王アビメレクは、使いをやって、サラを召し入れた。」

20:3 ところが、神は、夜、夢の中で、アビメレクのところに来られ、そして仰せられた。「あなたが召し入れた女のために、あなたは死ななければならない。あの女は夫のある身である。」

 そして、今回もエジプトの場合と同じように、主が介入されて、サラを守られたのです。主はアビメレクに夢で啓示をなさり、「アブラハムの妻サラに触れるな」と仰せになったのです。「触れるならば、あなたは死ぬ」と。アビメレクは怖気づいて言います。4,5節。こうして約束の子イサクを宿すことを定められているサラの胎は守られたのでした。

 祈って祈って祈って、聞かれないという経験をするときに、人は神様に対してすねた思いになるときがあります。そして、神様に背を向けて見たくなることがあるかもしれません。
 けれども、私たちの視野にはいるかぎりでは、祈りがまるで聞かれていないと思えているようでも、ちょうど、神様がひそかにロトを救出してくださっていたというように、神様は私たちの祈りをひそかに聞いてくださっているということがあるのです。
 ですから、一見すると祈りが届いていないと思えるような状況であっても、私たちは神様に背を向けてはならないのです。私たちが祈るとき、たとえ目の前の状況は変わらずとも、すでに主はみわざを始めていてくださるのです。
「いつでも祈るべきであって、失望してはならない。」

2.主の召しは変わらず
 
 しかし、アビメレクに対することばの結びにおいて、主は注目すべきことをおっしゃっています。7節です。「今、あの人の妻を帰していのちを得なさい。あの人は預言者であって、あなたのためにも祈ってくれよう。」
 アブラハムは「もう自分の祈りなど主は心にとめてはくださらない。ああ、いやになった。もう神様とかかわるのはまっぴらだ。」というようなすねた思いに陥って、この地まで引っ越してきたのです。「自分は預言者でも祭司でもない。」そんな気持ちだったのです。ところが、主はそうはおっしゃらない。「あの人は預言者であって、あなたのためにも祈ってくれよう。」とおっしゃるのです。
 他方、アビメレクは国の者たちを集めて、主の夢のことを話しました。民は恐れました。そして、またアビメレクはアブラハムを問い詰めました。9節。10節。
「あなたは何ということを、してくれたのか。あなたが私と私の王国とに、こんな大きな罪をもたらすとは、いったい私がどんな罪をあなたに犯したのか。あなたはしてはならないことを、私にしたのだ。」また、アビメレクはアブラハムに言った。「あなたはどういうつもりで、こんなことをしたのか。」まったくもっともな苦情の申し立てです。
ところが、です。アブラハムのこれに対する返答はどうでしょうか。10節から13節。「この地方には、神を恐れることが全くないので、人々が私の妻のゆえに、私を殺すと思ったからです。また、ほんとうに、あれは私の妹です。あの女は私の父の娘ですが、私の母の娘ではありません。それが私の妻になったのです。神が私を父の家からさすらいの旅に出されたとき、私は彼女に、『こうして、あなたの愛を私のために尽くしておくれ。私たちが行くどこででも、私のことを、この人は私の兄です、と言っておくれ』と頼んだのです。」まったくみっともない限りではありませんか。
 まずアビメレクに対してなんと失礼な言い分でしょうか。「この地方には、神を恐れることがまったくないので、・・」とは。この文脈で見るならば、むしろアビメレクのほうが神を恐れているのではないでしょうか。恐れたからこそ、アブラハムに妻を返そうとしているのです。 アブラハムのほうこそ真の神を恐れていないから、奥さんを妹と偽って保身を図り、わが身を守るために妻を王に差し出すといった卑怯なことをやってのけたのではありませんか。アブラハムの自己弁護のどこに神の民の長としての誇りが見えるでしょう。どこが「信仰の父アブラハム」でしょうか。なんと惨めないいわけでしょうか。ほんとうにアブラハムという人は、神様を見上げ、神様にしたがっている限りは、勇ましい信仰の英雄のですが、一度神様に背を向けると、人並み以下の男に転落してしまうようです。
 サラの視点からアブラハムの生涯を記した本があります。その中に、自分の妻を裏切って保身に走ったアブラハムはなんとも生気のない衰えた老人に見えたというくだりがありますが、まさしくその通りです。
 さらに見てゆくと、アビメレクのほうがよほど紳士的ですね。14節から16節の行動を見てください。お詫びをするのはアブラハムのほうであるはずなのに、アビメレクのほうがまるでお詫びをしているかのようです。もちろん彼は、主なる神がアブラハムに手を出すなとおっしゃったので、恐ろしくてこういう風にふるまっているに過ぎないといえば、そのとおりなのですが、アビメレクは世間で言うところの紳士でした。
 卑怯で男の風上にも置けないようなアブラハム、紳士的なアビメレク。ところが、です。17節18節をご覧ください。

20:17 そこで、アブラハムは神に祈った。神はアビメレクとその妻、および、はしためたちをいやされたので、彼らはまた子を産むようになった。 20:18 【主】が、アブラハムの妻、サラのゆえに、アビメレクの家のすべての胎を堅く閉じておられたからである。

アブラハムは主に祈った。すると、主はお聞きになったのです。この場面について、妻サライの目からアブラハムを描いた書はこう言っています。あの保身のために自分を売ったアブラハムは、みじめったらしい老人にすぎなく見えたのに、ひとたびアビメレクとその一族のために祈り始めたアブラハムは、こうごうしくさえ見えたのでした。
やはりアブラハムは神の選んだ預言者でした。

 アブラハムの弱さや不信仰にもかかわらず、主はそのしもべアブラハムをお見捨てにはならなかったのです。主の召命は変わらず、です。主のアブラハムに対する召しは、彼の行いにはよらず、神の選びによったのでした。この罪深い自分であるにもかかわらず、神は私をお捨てにならなかった。アブラハムは、祈り始めると、不思議に御霊の力に満たされ、その祈りが答えられるのを見て、不思議な主の選びを感じたのでした。

 もう一つ教えられること。ドナティスト論争において課題となったことです。アウグスティヌスの時代、教会は分裂の危機にさらされていました。分派行動を起こしたのがドナティストと呼ばれる人々でした。彼らはいいました。「ローマ皇帝の迫害に屈して聖書を敵に渡した司祭たちはけしからん。彼らの授けた洗礼、彼らの授けた叙階は無効である。」つまり整理すれば、礼典の有効性はこれを授ける人の人格によるということです。これを人効説といいます。
 これに対してアウグスティヌスは反論しました。いや、礼典を行うとき、その礼典を有効にするのは、聖礼典の執行者ではない。聖礼典を有効にするのは、主イエスキリストご自身である。だから、執行者が主イエスの御名において行う礼典であるかぎり、司式者の人物のいかんにかかわらず有効である。これは事効説といいます。こうして教会は大混乱に陥りました。
 きょうの御言葉はどちらを示しているでしょうか。後者、アウグスティヌスの説の正しさです。アブラハムの弱さにもかかわらず、主はアブラハム祈りをお聞きになってアビメレクの民に加えられた呪いを取り除かれました。「アブラハムはあなたのために祈ってくれる」と主が仰せになったとおりでした。