マルコ7:1−23
2016年10月30日 苫小牧福音教会
宗教改革記念礼拝
1.パリサイ人たちの抗議
イエスと弟子たちによる伝道活動が、ガリラヤの民衆に支持されているという報せをエルサレムにあるユダヤ教の総本山は快からず聞いていました。彼らが特にイエスを危険人物であると考えたのは、イエスがユダヤ教の厳格な律法を軽んじていると思いこんだからです。実際には、主イエスは「律法の一点一画も決して廃れることはない」とおっしゃったほどに神の戒めをたいせつになさっていたからこそ、ユダヤ当局の律法主義を批判なさったのですが、そのことがユダヤ当局の人々にはそれが理解できませんでした。
そこで、ユダヤ当局はパリサイ派、律法学者たちを派遣して、主イエスを非難したのです。彼らがとらえたポイントは、イエスの弟子たちのうちに手を洗わないで食事をするふらちな者がいるという点でした。
7:1 さて、パリサイ人たちと幾人かの律法学者がエルサレムから来ていて、イエスの回りに集まった。 7:2 イエスの弟子のうちに、汚れた手で、すなわち洗わない手でパンを食べている者があるのを見て、 7:3 ──パリサイ人をはじめユダヤ人はみな、昔の人たちの言い伝えを堅く守って、手をよく洗わないでは食事をせず、
7:4 また、市場から帰ったときには、からだをきよめてからでないと食事をしない。まだこのほかにも、杯、水差し、銅器を洗うことなど、堅く守るように伝えられた、しきたりがたくさんある──
7:5 パリサイ人と律法学者たちは、イエスに尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人たちの言い伝えに従って歩まないで、汚れた手でパンを食べるのですか。」
食事の前に手を洗うというのは、日本では家でも小学校でもしつけられることですが、それは衛生のためです。しかし、パリサイ派律法学者たちにとっては、食前の手洗いは宗教的儀式としていたのです。ところが、旧約聖書の出エジプト記、民数記、レビ記、申命記を調べてみても、「食前には手を洗わなければならない」という律法はどこにもありません。「洗い」ということで調べると、祭司のいけにえの儀式に伴う洗い、病的な漏出、精のきよめの洗いは定められていますが、食事において手洗いを定めた律法などないのです。
では、なぜ律法学者たちは市場に出かけたあと食前の手洗いをしないことが違反だと怒っているのでしょうか。こうした規則が作られた経緯の詳細はわかりませんが、旧約聖書には過ぎ越しの聖なる食事のような、食事を聖なるものとするケースがあることが第一の要素でしょう。そして、第二の要素は上に述べたようなきよめのための洗いの儀式がほかにあるということでしょう。この二つの要素を結び合わせて、食前の手洗い、市場に出かけたら手だけでなくからだを洗って食事をしなければならないとか、食器も洗わねばならないとか、いろいろ詳しく規則を作ったのでしょう。こんなふうに当時の律法学者は律法から敷衍してつぎつぎに多くの規則を作り出して、民にそれを教えて民の一挙手一投足のありかたまでも規制していました。
律法の解釈や註解をすること自体は悪いことではありません。むしろ、正しい理解を深めて具体的生活に神のことばを適用するために必要なことです。私たちも聖書を読んでそれを歴史の文脈のなかで理解して、かつ、今日の私たちの生活にも適用すべき根本的なことを取り出すという作業をしているわけです。しかし、律法そのものよりも註解や律法から敷衍してつくられた規則が律法よりも何倍、何十倍も多くなってしまい、それが律法の根本的な教えに反するとしたら、これは異常です。けれども、律法学者たちは、それを異常であるとは思わず、それこそ神を恐れる道であると信じ込んでいたので、イエス様の弟子たちのなかに食前の手洗いの儀式を守らない不埒なものがいる以上、指導者であるイエスに監督不行き届きという責任があると責めたわけです。
2 イエスの反論・・・偽善者よ!
この非難に対してイエス様は反論なさいました。「あなたがたは偽善者だ」と。イエス様は彼らパリサイ派、律法学者たちのどういう点が偽善者であると責めたのでしょうか。2つポイントがあります。
(1)人間の言い伝えによって、神の戒めを軽んじている
第一は、彼らが神の戒めである律法を大事にしているつもりであるが、実際には「人間の言い伝え」を守ることに必死になって、神の戒めである律法をないがしろにしているということです。このことを、主イエスはイザヤの預言を引用しておっしゃいます。6節から8節。
7:6 イエスは彼らに言われた。「イザヤはあなたがた偽善者について預言をして、こう書いているが、まさにそのとおりです。
『この民は、口先ではわたしを敬うが、
その心は、わたしから遠く離れている。
7:7 彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。
人間の教えを、教えとして教えるだけだから。』
7:8 あなたがたは、神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っている。」
イエス様の時代、イスラエルは神政政治が行われている宗教国家であり、その指導者にあたる律法学者たちは尊敬される立場にありました。しかし、「君たちは、神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを固く守っているにすぎない」と主イエスは責めるのです。先ほどお話したように、旧約聖書にはない数々の規則や儀式を作っていることを非難なさるのです。食前の手洗い、体洗い、食器洗いは、単なる「人間の言い伝え」だったのです。食前の手洗いだけでなく、当時のユダヤ社会は、律法についてさまざまな解釈を加えていくうちに、人々の生活の隅々までこと細かく縛りつける規則だらけになっていました。
明日10月31日は宗教改革記念日なので、関連したことを少しお話ししたいと思います。地中海世界、ヨーロッパ世界に主イエスの福音が宣伝えられて、最初は教会はローマ帝国の迫害下に置かれましたが、4世紀の終わり392年には帝国の国教とされます。すると、日本で仏教が国教とされて法隆寺、東大寺など日本中に巨大な仏閣が造られていったのと同じように、ローマ帝国中に巨大な教会堂が造られるようになっていきました。それ以前は、民家や地下墓所で行われていたシンプルな礼拝が、荘厳な儀式とされていきます。キリスト教司祭たちは高級国家公務員になり、服装も華美なものとなって行きます。ローマ帝国が崩壊して、中世ヨーロッパになっても、キリスト教はずっと国教としての位置を占めていて、教会の儀式はますます複雑で豪華なものとされていきます。しかし、他面、聖書のことばは読まれず理解されなくなって行きました。ローマ帝国時代には、ラテン民族にとってラテン語は日常語でしたから、朗読されれば理解できましたが、時代が移ってイタリア語、スペイン語に言葉が変化していきます。もっとわからないのは、ゲルマン人たちが住む今で言うフランス、イギリス、ドイツにあたる地域ではラテン語は、特別に学問を修めた人以外には理解できませんでした。しかし、教会での公認聖書はラテン語訳聖書のみで、典礼ではラテン語で行われましたから、一般の人々は教会での儀式の意味はさっぱりわからなくなっていきました。ちょうど漢訳仏典を音読みしているお経みたいなものです。そして、民衆にとっては、わけわからんけれど儀式にとにかく参加することで、マリア様の功徳に与ることができて天国に行けるというふうに、キリスト教が迷信化してしまったのです。
宗教改革者の標語のひとつは「聖書のみSola Scriptura」です。改革者たちは、人間が勝手に作り出したさまざまな儀式や規則でなく、聖書そのものに立ち返ることを訴えました。そして、聖書に根拠のある儀式は、洗礼式と聖餐式のみであるとし、聖書がそれぞれの国で理解できることばに翻訳され、福音が説き明かされ洗礼と聖餐式も理解できることばで行われるようにしたのです。
(2)形式主義で愛と誠実を疎かにしている
主イエスがパリサイ人たちを責めた偽善の第二のポイントは、形式主義です。形式はたしかに必要なものですが、形ばかり整えることに一生懸命になると、形だけで満足してしまい、中味が疎かになるのです。神の戒めの本質である愛と誠実をないがしろにしているという点でした。その実例を主は9節から13節で語っていらっしゃいます。
7:9 また言われた。「あなたがたは、自分たちの言い伝えを守るために、よくも神の戒めをないがしろにしたものです。 7:10 モーセは、『あなたの父と母を敬え』、また『父や母をののしる者は死刑に処せられる』と言っています。 7:11 それなのに、あなたがたは、もし人が父や母に向かって、私からあなたのために上げられる物は、コルバン(すなわち、ささげ物)になりました、と言えば、 7:12 その人には、父や母のために、もはや何もさせないようにしています。 7:13 こうしてあなたがたは、自分たちが受け継いだ言い伝えによって、神のことばを空文にしています。そして、これと同じようなことを、たくさんしているのです。」
「あなたの父母を敬いなさい」というのは十戒の第5番目の戒めです。十戒の1番目から4番目は神への愛の表現にかんする戒めであり、5番目から10番目は隣人愛にかんする戒めであってその最初が「あなたの父母を敬え」なのです。ところが、それを「コルバン」という宣言によって空文にしているというのです。
孝行息子のAさんがお父さん、お母さんの老後のために用意してある生活資金があるとします。神殿礼拝で祭司が「アブラハムのイサク奉献を見なさい。神への奉献は何よりも尊い行為です。心を尽くして、いのちがけで、すべてを神に奉献しましょう。」と強調したところ、Aさんは、「父母のため蓄えた老後の生活資金も神にささげるべきだろうか。神様を信頼せずに、蓄えていることは不信仰だろうか。」などと思うようになって、祭司に相談したとします。すると、祭司は「おお、それは神の喜ばれることです。もし、そうしたいなら、『父母への贈り物はコルバン(神へのささげもの)になりました』と宣言すれば、合法的にそれを父への贈り物をしなくてよいのですよ」と教える、といったことでしょう。そして、老いた父母は困窮してしまう。こういう祭司たちは、実のところは、エルサレム神殿の金庫をふくらませる口実として、神の名をダシに使っているにすぎません。欺瞞の極致です。そのことを、主イエスはお怒りになっているのです。
ルターが宗教改革ののろしを上げたのは1517年ですが、それは「免罪符問題」にかかわってのことでした。当時ローマ教会は聖ペテロ寺院建設資金を集めていて、そのために免罪符を販売しました。ローマ教会では死後天国に直行できるのは聖人のようなごく一部の人だけで、大半は煉獄に行きそこで苦しみを経てから天国に移されると教えていました。しかし、その息子や娘が死んで煉獄で苦しんでいる父ちゃん、母ちゃんのために、ありがたい免罪符を買って献金すれば、父ちゃん母ちゃんの霊は煉獄から天国へピューッと移されると教えました。もちろん作り話です。そこには愛も誠実もありません。ただ貪りがあるだけです。
形式主義の問題点をさらに身近に引き寄せてお話しすれば、形にばかりこだわっているうちに、一番大事な中味、その心が失われていくということは私たちの生活習慣の中でありがちなことです。特に伝統的な文化、古い因習のある文化の中にはありがちなことです。たとえば、お中元とかお歳暮とかいうのは、もともと感謝の心を表すよいものだったのでしょう。しかし、それが、形式化すると、感謝の心がなくなってただ負担感だけでしているというようなこともあるでしょう。いろんな儀礼は、本来意味あるものですが、段々と人を縛るだけの無意味で有害なものになるものです。そのときには、原点に返って、何のための儀礼であるのかを弁えて、「生活改善方式」に整理することよいことです。
3.心を洗え
主イエスは、特に、律法学者たちが罪のけがれにかかわる「洗い」について、形式主義に陥っていることは、非常に危険なことであると考えられました。もともといけにえの儀式における洗いとか、漏出における洗いというのは、罪が神の前にきよめられるという霊的な事実の象徴にすぎません。儀式というのは、見えない霊的現実を、見える形に表現することです。ところが、儀式のかたちにこだわりすぎると、儀式それ自体が大事なことになってしまって、その儀式が象徴している霊的現実を忘れてしまうのです。「洗い」という儀式は、神の前に罪を悔い改めて神からきよめをいただくことを意味するのですが、洗いの儀式自体が行われていたら、神の前における自分の罪の醜い現実と悔い改め、罪を捨てて生き直すことを忘れてしまうのです。そこで、主イエスはおっしゃいます。
7:14 イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「みな、わたしの言うことを聞いて、悟るようになりなさい。 7:15 外側から人に入って、人を汚すことのできる物は何もありません。人から出て来るものが、人を汚すものなのです。」
7:17 イエスが群衆を離れて、家に入られると、弟子たちは、このたとえについて尋ねた。
7:18 イエスは言われた。「あなたがたまで、そんなにわからないのですか。外側から人に入って来る物は人を汚すことができない、ということがわからないのですか。
7:19 そのような物は、人の心には、入らないで、腹に入り、そして、かわやに出されてしまうのです。」イエスは、このように、すべての食物をきよいとされた。
律法学者の先生たちが、学問的で上品に議論するのに対して、大工さんであるイエス様は、「上品ぶるんじゃねえ!」とでも言いたいようで、きわめて卑近な例を挙げて説明します。「市場に行って家に帰って手を洗わないで、パンや肉を食おうと、それがその人の霊を汚すことなんかありゃしねえ。そんなものは、口から腹にはいって、糞になって便所に出されちまうさ! そりゃきたねえ手で飯を食ったら腹をこわすことはあるだろうが、心が汚れることなんぞありゃしねえ。」というわけです。まことに、その通りです。
では、神の目から見て、人を汚すものはなんでしょうか?それは食べ物や飲み物ではありません。人を汚すもの、それは罪です。
7:20 また言われた。「人から出るもの、これが、人を汚すのです。 7:21 内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、
7:22 姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、
7:23 これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」
確かに、こういう恐ろしいもろもろの罪は、私たちの心の内側からあふれ出てくるものです。私たちの、心の深いところにアダム以来の原罪が巣食っていて、そこから、悪い考えが生じ、不品行、みだらな思いや、自分のものでないものをほしがる貪りが生じて盗みを働き、人を憎む憎しみが殺人を引き起こし、人妻をほしがる思いが姦淫を引き起こし・・・ということなのです。皆、私たちの内側に根っこがあるのであって、外側の問題ではありません。ですから、風呂にはいって、石鹸やシャンプーでどんなにごしごし洗っても、私たちの罪をきよめることなど出来るわけがありません。
聖なる神の前において肝心なことは、心がきよめられることです。心がきよくされて、私たちの内側から、神への愛と、隣人への愛とがあふれてくるようになることが肝心なことです。
では、私たちの汚れた心は、どのようにしてきよめられますか?人間は、心がきよめられる方法として、昔からいろいろな儀式や禁欲修業を考えました。修行者たちは、断食をしたり、釘でからだを刺したり、ひざで石畳を歩いたり、滝に打たれたり、炭火の上を裸足で歩いたり・・・と、いろんな修行しますが、こういうのは何のききめもありません。この手の修業はオウム真理教もさんざんやっていたでしょう。コロサイ書に次のようにあります。「 『すがるな。味わうな。さわるな』というような定めに縛られるのですか。そのようなものはすべて、用いれば滅びるものについてであって、人間の戒めと教えによるものです。 そのようなものは、人間の好き勝手な礼拝とか、謙遜とか、または、肉体の苦行などのゆえに賢いもののように見えますが、肉のほしいままな欲望に対しては、何のききめもないのです。」(コロサイ2:21-23)
では、どうすればよいのか。まず、「自分自身の力では自分の魂をきよめることはできません」と神様の前に認めること、降参することです。つぎに、「イエス様の十字架の御血潮をもって、私の罪けがれをきよめてください。そして、私のうちに主のきよい御霊を満たしてください。」と主イエス様を見上げてすがることです。そこに、罪に代えて御霊の実が結ばれてきます。「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」です。