苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

エゴー・エイミ

マルコ6:45−56
2016年10月23日

1.権力への誘惑

(1)人々の求めと主イエスの考え
 五千人給食が終わると、「それからすぐに、イエスは弟子たちをしいて舟に乗り込ませた」とあります。主イエスは弟子たちを五千人の人々から引き離したかったのです。なぜでしょうか。五千人の人々を、イエス様がわずか五つのパンと二匹の魚をふやして養われたとき、人々は偉大な王の出現だと色めき立ちました。ヨハネ福音書の平行記事を読みますと、「そこで、イエスは、人々が自分を王とするために、むりやりに連れて行こうとしているのを知って、ただひとり、また山に退かれた。」とあります(ヨハネ6:15)。民衆はローマ帝国の属州民として重税をかけられて生活に困窮していました。また、彼らは民族としての独立を奪われて久しく辱めの中に置かれていました。ですから、ローマ帝国を倒して生活をもっと楽にしてくれる王、さらにはかつてのダビデ、ソロモン王朝の栄光を回復してくれる王の登場を待ち望んでいたからです。
 そうした熱っぽい雰囲気が12人の弟子たちまでも影響して、彼らが「今こそ俺たちの先生が世に出るチャンスではないか」と考え出す危険がありました。そこで、イエス様は弟子たちを群衆から引き離すために、「強いて舟に乗り込ませ、先に向こう岸のベツサイダに行かせ」たのです。
 群衆は、政治的革命を起こして貧困から解放されることこそが幸福への道だと考えました。昔から革命を志す人々は理想をかかげて燃え上がるものです。圧制を撥ね退けて理想社会を来たらせるのだというのです。フランス革命でも、ロシア革命でも、中国の毛沢東革命でも、カンボジアポルポト革命でも、みな理想を夢見るのです。そして、その理想を妨げている者を悪逆非道な敵として血祭りに挙げるのです。しかし、やがて革命が成し遂げられると、その指導者たちロベスピエールスターリン毛沢東ポルポトも先の支配者に勝るとも劣らぬ独裁者となり、おびただしい自国民を粛清しました。
 神のご計画は違います。イエス様が救い主として地上に来られたのは、ローマの圧制を暴力的手段によって倒し、イスラエルダビデ−ソロモン王朝時代の栄華を再現させるためではありませんでした。主イエスは、イスラエル民族にとってのみならず、人類普遍のもっと厄介な根本問題の解決に来られたのです。人間の根本的問題とは何でしょうか。それはあらゆる人間の内側に巣食っている罪です。社会のもろもろの問題の根は、この罪なのです。イエス様は人間を、悪魔の圧制、罪と滅びから救う救い主としてこの世に来られたのです。たしかに、イエス様は王として民のために戦われますが、その敵はローマ帝国ではなく、罪でありまた悪魔なのです。イエス様にとっては、ユダヤ人だけでなく、この地を支配していたローマ兵たちもまたあわれみの対象でした。
 主イエスが先の五千人給食の奇跡をもって示そうとされたことは、実に、このことでした。いのちのパンとして下られた主イエスは、自分が権力者となるのでなく、かえって、しもべとなって、自分のいのちをあの十字架において私たちに与えることによって、ユダヤ人もなくギリシャ人もローマ人もない、神の国を来たらせるお方なのです。しかし、6章52節にあるように、「弟子たちはまだパンのことから悟るところがなく、その心は堅く閉じていた」のでした。


(2)主イエスは山へ
 主イエスは群衆を解散させると、御自分一人で山に退かれました。それは父なる神様に祈るためでした。

「6:46 それから、群衆に別れ、祈るために、そこを去って山のほうに向かわれた。」

 人々がイエス様を担ぎ出して王としようとするという動きは、実はイエス様にとっても誘惑の時でもありました。その動きの背後にサタンの動きを察知しなければなりません。イエス様が宣教を始められた時、あの荒野の四十日におよぶ試みにおいて、サタンはイエス様に「石をパンに変えてみよ」とか、「わたしを拝むならこの世の富と権力すべてを与えよう」と言いました(マタイ4)。今回の誘惑は、「あわれな飢えた民衆が必要としているのは、本当に罪の赦しのような抽象的なものなのか?パンこそ、民衆が欲しがっているものではないか。そのパンを与えるためには、お前さんがこの地上で権力と富を握ることが一番ではないか。」ということでした。
 羊飼いのいない羊のような民衆を御覧になったイエス様は、彼らの惨めなありさまに心を痛められました。パンを与えると、先ほどまでおなかをすかせて青白い顔をしていた彼らは、顔を輝かせて喜んだのです。元気になったのです。十字架にかかって彼らの罪のあがないをするよりも、もっと民衆を幸せにする道は自分が奇跡の力をもって彼らの必要を満たし、イスラエルの王となってローマの圧制を退け彼らを治めてやることではないでしょうか。罪のゆるしなど彼らは求めていない。彼らが必要としているのはパンなのではないか。
 主イエスは、しかし、その誘惑を退けました。一人父なる神様のみもとに戻って御自分に与えられた使命を確認するために、山に登られたのです。

 多くの人は、さまざまな問題を抱えて教会を訪れます。けれども、人はキリストに出会うと、自分が問題だと思っていたことが問題ではなく、別の問題こそ問題であったことに気づき、その解決が与えられると、そして先に問題と思ったことも担って生きることが出来るようになるのです。
 人をほんとうに不幸にしているものは、貧乏でもないし、病気でもありませんし、他人の罪でもありません。自分の罪です。神と私たちを隔てて、生きる目的も生きる力も愛する喜びも失わせ、ついには永遠の滅びに陥れるのは自分自身の罪なのです。イエス様はその問題の解決のために、この世に来て下さいました。私たちが第一に求め受け取るべきは、罪からの救いなのです。たしかにイエス様は、病む人、悪霊にとりつかれて困っている人々をその苦しみから解放し、空腹な群衆にはパンを食べさせてやられましたから、時に教会が必要に応じてそうした社会奉仕に携わることは大事なことです。また、時に国家が暴走するときに、神のことばに立って警告を発するという社会における預言者としての任務もあります。けれども、事柄の優先順位を言うならば、それら社会的な責任は教会にとって第二の働きであって第一の働きではありません。教会に託された第一の使命は、世には愚かとも聞こえる「十字架のことば」を伝えることです。


2.暗やみと逆風の湖上で

「6:47 夕方になったころ、舟は湖の真ん中に出ており、イエスだけが陸地におられた。」

 弟子たちは「イエスを王に!」と盛り上がっている群衆に後ろ髪ひかれる思いで、無理やり舟に乗り込まされて、しぶしぶベツサイダに向かいます。先に二度舟に乗った時にはイエス様がごいっしょしてくださいましたが、今回は自分たちだけです。そして、沖に漕ぎ出るとまたもや向かい風。漕いでも漕いでも全然進みません。最初はパンの奇跡を見て興奮していた弟子たちも、へとへとになってしまいました。夕暮れ時六時頃に乗り込んで、夜中の三時までこぎ続けても−−−実に9時間!−−舟は向こう岸につきません。ずっと湖の真ん中です。漕げども漕げども進まないという、倦怠感と疲労に呑み込まれてしまいました。夜中の3時ともなれば岸辺の人家の明かりは見えず、星も見えない夜です。真っ黒い波が舟をさいなみます。羊飼いのいない羊とは彼らのことでした。主イエスはなにをなさっていたのでしょう。

「6:48 イエスは、弟子たちが、向かい風のために漕ぎあぐねているのをご覧になり、夜中の三時ごろ、湖の上を歩いて、彼らに近づいて行かれたが、そのままそばを通り過ぎようとのおつもりであった。」

 イエス様は弟子たちの舟のようすをすべてご覧になっていました。彼らがどれほど疲労困憊しているかもご存知でした。そこで、夜中の三時に湖の上を歩いて舟に近づいて行かれました。しかし、舟にいる弟子から見ると、主は「そのままそばを通り過ぎようとのおつもりであった」とあります。これはどういうことでしょう。ここは、むかしから聖書解釈者を悩ませてきた難所です。
まず、主イエスはこの箇所で特別な啓示を与えようとしていらっしゃるということを弁える必要があります。主はいつもは海の上を歩いたりはなさりません。これは特別な出来事です。この箇所の背景には、旧約時代以来の、主の啓示の伝統があります。「主が通り過ぎる」「主の栄光が通り過ぎる」という表現は、たとえばヨブ記出エジプトヨブ記に出てきます。ヨブは嘆きながら言いました。神は海を歩き、そばを通り過ぎるお方です。

9:8 神はただひとりで天を張り延ばし、海の大波を踏まれる。
9:11 たとい神が私のそばを通り過ぎても、私には見えない。神が進んで行っても、私は認めることができない。

また、主はモーセの前を通り過ぎるのです。

出エジプト33:22 「わたしの栄光が通り過ぎるときには、わたしはあなたを岩の裂け目に入れ、わたしが通り過ぎるまで、この手であなたをおおっておこう。」

また、ホレブ山で預言者エリヤの前を主が通り過ぎました。

1列王19:11「 【主】は仰せられた。「外に出て、山の上で【主】の前に立て。」すると、そのとき、【主】が通り過ぎられ、【主】の前で、激しい大風が山々を裂き、岩々を砕いた。しかし、風の中に【主】はおられなかった。風のあとに地震が起こったが、地震の中にも【主】はおられなかった。」

 主がご自身をありのままに啓示なさるとき、「通り過ぎる」と表現されます。
 舟の上の弟子たちは、黒い波間に白い人影が波に上下しながら歩いてくるのが見えました。通り過ぎるかと思いましたが、こちらに近づいてきます。「ギャー幽霊だ!」と弟子たちは叫びます。救い主が近づいているのに、恐怖におののいてしまったのです。しかし、闇の向こうから声が響きました。

「6:50しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」

「わたしだ。」「エゴーエイミ」この主の御声が弟子たちに平安をもたらしたのです。そうです。主の御声がです。「エゴー・エイミ」とは、英語でいえば「I am」「わたしはありてある」という意味です。これは、かつてモーセが荒野の燃える柴の箇所で主から啓示された聖なる名を思い出させます。世にあるすべてのものは、「かつてはなく、今、あるが、やがてなくなってしまうもの」です。しかし、主なる神は常に、そして、いずこにあっても「ある」お方なのです。変わらず真実なお方、いずこにもいてくださるお方です。波にもまれていても、舟が沈みそうでも、暗闇に閉ざされていても、四方八方敵に囲まれていても、エゴー・エイミなるお方がいるのです。

舟は教会です。時に、教会は真っ暗闇な海の真ん中に放り出されたような経験をします。前にも進めず、後ろにももどれません。真っ暗闇でどちらが西でどちらが東であるかすらわかりません。
そういうときには、舟にはイエス様がいつものように乗っていないかに思えるのです。
頑張りに頑張ってさんざん漕ぎましたが、腕は重くなってもう限界です。もう疲れました。
しかし、主イエスが来られるのです。偉大な預言者モーセの前を、炎の預言者エリヤの前を「通り過ぎて」ご自分をあらわしてくださった、あの主が舟の前を通り過ぎるのです。その臨在は恐ろしくてその意味もわからず、舟のなかの弟子たち、教会のみなはおじ惑います。
しかし、闇の向こうから、あの声が響くのです。「わたしだ。恐れることはない。」
エゴー、エイミ! あらゆるものが頼りなくも過ぎて行き滅びていっても、決してかわることのない真実なお方が、舟に乗り込んでこられるのです。
 いえ、実は、真っ暗闇の海の上に放り出されていたと思っていたときにも、肉眼には見えていなくても、主はともにおられたのです。弟子たちが気づかないだけでした。主はエゴー・エイミ、すなわち、「わたしはある」お方です。

「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」