ガラテヤ書の背景には、異なる福音を語る「割礼派」(2:12)がいた。彼らは何を教えていたか?
2:14 しかし、彼らが福音の真理についてまっすぐに歩んでいないのを見て、私はみなの面前でケパにこう言いました。「あなたは、自分がユダヤ人でありながらユダヤ人のようには生活せず、異邦人のように生活していたのに、どうして異邦人に対して、ユダヤ人の生活を強いるのですか。
とあるように、ケパが同調してしまった割礼派は異邦人に対してユダヤ人の生活を強いていた。それは「律法の行いを求める」を行うことであったことが、2:15からわかる。
2:15 私たちは、生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。 2:16 しかし、人は律法の行いによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行いによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行いによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。
ここで言われている「律法の行い」とは、何を意味するのだろうか?十戒に見られるような道徳的要求全体を意味しているのか?文脈上、そうではない。彼ら「割礼派」が異邦人に求めたとしてパウロに非難されている「律法の行い」とは、彼らが「割礼派」と呼ばれていることからわかるように、「割礼を行うこと」である。
しかし、パウロによれば、異邦人に割礼を求めることは、神の恵みを無にし、キリストの死を無意味にすることであり、福音の真理を裏切ることだった。
2:21 私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。