苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

虹の契約

創世記9:1−17
2016年7月17日 苫小牧主日夕拝

1 人類再出発の命令

 主は、ノアの礼拝を受け入れて、ノアと彼の子孫に祝福を与えてくださいます。私たちもまたノアの子孫ですから、神様は私たちをノア契約のゆえに祝福していてくださっているのです。では、ノア契約によって、私たちはどういう祝福を受けているのでしょうか?
 まず、主のおことばは、最初の人アダムに対することばと類似している点と、異なっている点があるので、これに注目しましょう。

(1)創造のときの命令との類似点
類似点は1節、2節です。

9:1 それで、神はノアと、その息子たちを祝福して、彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地に満ちよ。
9:2 野の獣、空の鳥、──地の上を動くすべてのもの──それに海の魚、これらすべてはあなたがたを恐れておののこう。わたしはこれらをあなたがたにゆだねている。

 アダムに対して、主は「生めよ、ふえよ」とおっしゃったように、ノアに対しても同じことをご命令なさいました。結婚をし、家庭を営み、子どもを産んでふえ広がることは、神様の祝福です。独身者としての召しを受ける特別な人もいると主イエスはおっしゃいましたし、また、結婚をしても子を授からないことに主の特別なご計画があるケースもありますが、それは特例であって、基本的には結婚をし生み、ふえることは祝福です。
 そして、2節の「被造物をゆだねている」ということばは、アダムに対して、「地を支配せよ」とおっしゃったことと同じです。神のみこころにそって、被造物を支配し、これを正しく管理することです。先に学んだように、①それは被造物を利用して、その可能性を引き出し、②またこれを守るという両方の面があります。「被造物を守りつつ利用して、文化を築くのです」ことです。こうして、私たち人間は文化命令を果たして行きます。

(2)創造における命令との相違点
 相違点は、3、4節です。
① 食べ物規定の変更
 違いは食べ物に関する規定の変更です。

9:3 生きて動いているものはみな、あなたがたの食物である。緑の草と同じように、すべてのものをあなたがたに与えた。
9:4 しかし、肉は、そのいのちである血のあるままで食べてはならない。

 これと創世記1章29,30節を比較してください。

1:29 神は仰せられた。「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与える。それがあなたがたの食物となる。
1:30 また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地をはうすべてのもので、いのちの息のあるもののために、食物として、すべての緑の草を与える。」そのようになった。

堕落前には、人間は穀物菜食であり肉食獣もいませんでした。堕落の後には、公認されてはいませんでしたが、肉食をする人とか肉食獣が出現していたと思われますが、ノアの洪水の後は、人間に肉食が公に許されたのです。これには恐らく大洪水による環境の激変ということが関係しているのだろうと思われます。
 大洪水後の環境においては植物からだけでは十分に栄養が摂取できないので、神様は人間に植物だけでなく、動物を食べることもお許しになったと考えられます。ただし、4節に言われていることは、「食べてもよいけれど、必要以上に貪り食ってはいけない」という意味でしょう。

②剣の権能の始まり
 もうひとつ、大洪水後に与えられたことばの特異性は、「剣の権能」と呼ばれるもの、つまり、今風にいえば警察権の制定であると理解されるところです。言い換えれば、国家の始まりということです。

9:5 わたしはあなたがたのいのちのためには、あなたがたの血の価を要求する。わたしはどんな獣にでも、それを要求する。また人にも、兄弟である者にも、人のいのちを要求する。
9:6 人の血を流す者は、
  人によって、血を流される。
  神は人を神のかたちに
  お造りになったから。
9:7 あなたがたは生めよ。ふえよ。
  地に群がり、地にふえよ。」

 人間が堕落していなければ、悪人を取り締まる必要がありませんから、剣の権能を託された権威つまり国家は必要ありませんでした。しかし、人間が神に背いて、好き勝手なことをするようになって、盗んだり、あるいは、手に入らないと他人を殺したりもするようになってしまったので、神様は悪を抑制するために、剣の権能をお定めになったのでした。人間は神のかたちに造られたものとして、尊厳ある者なので、殺してはならないのです。
 少し復習ですが、創造において神様がお定めになった3つの制度は、礼拝日(安息日)の定めと、仕事(文化命令)と、家庭でした。礼拝と仕事と家庭は、アダムの堕落以前からの人間生活の基本です。しかし、そこに人間の罪が入ってきましたので、礼拝と仕事と家庭を営むことが、妨げられるような事態が起こるようになりました。そうした妨げを除くために国家というものが定められました。ですから、国家は目的ではなく、手段です。
 先日、朝ドラ「とと姉ちゃん」の中に、花山伊佐次という「暮らしの手帳」編集長花森安治を擬した人物が登場します。彼は、焼け跡のバラック小屋の家々を前に、「自分はかつて男として、日々の暮らし以上に大事なものがあると信じて、戦地に行き、そこで病気になって帰還してからは、内務省で仕事をしていた。しかし、日々の暮らし以上にたいせつなものなのないのだ。」というふうに語っていました。彼は「進め一億 火の玉だ」などといった標語をつくって国民を戦争に駆り立てることを仕事としたことを、深く後悔していたのです。安息日ごとに神を礼拝し、仕事をし、家庭を営むという、日々の暮らしこそが尊いことであり、それを守るためにこそ、この堕落後の世界に神は国家という制度をお定めになったのです。国家は国民の日々の暮らしを維持するための装置であって、それ自体になにか究極的価値があるわけではないのです。
 しかし、今日、この国では次の首相とも噂される国会議員が「国民の生活のための政治などというものは間違っていると思います。」と公然と発言しています。彼女は宗教も仕事も家庭も国家に奉仕すべき存在であり、国民はお国のためにいのちをささげるのが「道義国家」だと唱えてもいます。これは国家を神とする偶像崇拝です。これは聖書の国家観とさかさまです。礼拝・労働・家庭の営みと言う民の暮らしが正常に営まれるという目的ために、堕落後の時代にあっては国家(警察権)は奉仕する公僕なのです。


2 保持の契約・・・環境保持と私たちの責任

(1)保持の契約 
 次に、神はノアに対して契約を結ばれました。「契約berith」という用語が出てくるのは、旧約聖書ではじめてのことです。ノアに対する契約の内容は、神が世界を大洪水で断つことをなさらず保ってくださるということで、「保持の契約」と呼ばれます。
 その特徴は、契約の相手としてノアと子孫だけでなく、地のすべての生き物を対象としているという点です。神様は人間だけの神ではなく、全被造物にとっての神なのです。その点、創造の契約と同じです。私たちは、この保持の契約のゆえに、今日も地球環境が保たれていて生かされているわけです。地球の自転も公転も、日照も雨降りも、そうして春夏秋冬の訪れも、この保持の契約によって維持されているのです。

  9:8 神はノアと、彼といっしょにいる息子たちに告げて仰せられた。
9:9 「さあ、わたしはわたしの契約を立てよう。あなたがたと、そしてあなたがたの後の子孫と。
9:10 また、あなたがたといっしょにいるすべての生き物と。鳥、家畜、それにあなたがたといっしょにいるすべての野の獣、箱舟から出て来たすべてのもの、地のすべての生き物と。
9:11 わたしはあなたがたと契約を立てる。すべて肉なるものは、もはや大洪水の水では断ち切られない。もはや大洪水が地を滅ぼすようなことはない。」

(2)相続人の責任
 神様が全被造物を対象として、契約をお与えになったのですから、私たちはノアの子孫として、全被造物に対して責任があります。来るべき死の向こうの天国のこと、あるいは再臨によってもたらされる新しい天と新しい地にだけ関心があって、今の世にはまるで無関心であるというのは、神様に喜ばれるクリスチャン生活ではありません。クリスチャンこそ神様の作品である、この環境の保護について積極的であるべきだということです。アダム堕落以来、被造物は虚無に服して苦しんでいるのであり、神の子つまりクリスチャンたちのあらわれをまっているのです。(ローマ8章)。
 キリストの福音を生きるということには礼拝をすること、伝道をすることがもちろん大きな比重を占めていますが、環境問題にもそれぞれの立場で取り組むことも含まれています。たとえばゴミをあまりにも多く出すような生活を改めるということも、そうした取り組みの一つです。燃えないごみは美しい山地の谷あいをうずめてしまうものですから。身近なところで私たちは神様がくださった被造物を大事にすることができます。


3 契約の印・・・虹

 神様は契約を人間にお与えになるとき、しばしば、「契約のしるし」を定められます。たとえば、アブラハム契約では割礼、イエス様の立てた新しい契約ではパンと葡萄酒がそれです。ノアに対する契約において、神様は、虹を契約のしるしとしてお定めになりました。この契約のしるしを見るとき、わたしたちはその契約に表わされた神様のご真実と恵みを思い起こします。

9:12 さらに神は仰せられた。「わたしとあなたがた、およびあなたがたといっしょにいるすべての生き物との間に、わたしが代々永遠にわたって結ぶ契約のしるしは、これである。
9:13 わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。それはわたしと地との間の契約のしるしとなる。
9:14 わたしが地の上に雲を起こすとき、虹が雲の中に現れる。
9:15 わたしは、わたしとあなたがたとの間、およびすべて肉なる生き物との間の、わたしの契約を思い出すから、大水は、すべての肉なるものを滅ぼす大洪水とは決してならない。
9:16 虹が雲の中にあるとき、わたしはそれを見て、神と、すべての生き物、地上のすべて肉なるものとの間の永遠の契約を思い出そう。」
9:17 こうして神はノアに仰せられた。「これが、わたしと、地上のすべての肉なるものとの間に立てた契約のしるしである。」

 ところで、なぜ「虹」が契約の印となったのでしょう?たまたまそのとき空に虹が出現したからということでしょうか。そうではないのです。虹をヘブル語でカシュトといいますが、カシュトには「弓」という意味もあります。英語でも虹をrainbowつまり雨弓と呼ぶでしょう。戦が終わると弓を壁にかけるわけですが、あたかもそのように、大空に弓がかけられたというわけです。そうして、神との平和が訪れたというわけです。
 アダム以来、神と、この堕落した世界との間には不和が生じました。人間は神に背を向けて、神などいなくても生きられるという傲慢な宣言して文明を築いてきました。神になどまったく無関心にしていながら、太陽を昇らせ、雨を降らせ、酸素を維持し・・・といった神の恵みを受け続けて、なおも感謝ひとつしないのです。 しかし、神はノアに対する契約に対する真実のゆえに、なおも何千年も忍耐し続けていてくださるのです。

結び
 今日も私たちは、ノアに対して結ばれた保持の契約のゆえに、この地球に生かされています。大洪水が全地表を覆うことはありません。神はご自分の与えた契約に関して真実なお方です。
 しかし、世界の多くの人々は、神がそのご真実のゆえに、地を滅ぼさずに保っていてくださることを知りませんし、感謝もしません。私自身、かつて、神などいるものかと思っていた愚か者でした。
 私たちは、イエス・キリストにあって、神の愛を知り、被造物世界の相続人としての召しを受けたのです。祭司としてこの世界のためにとりなし祈るものでありましょう。預言者として、世界の人々にキリストの福音をのべつたえましょう。そして、王として、この世界に主のみこころがなるために行動しましょう。神に生かされている者として、ふさわしい生き方を、地にあって、それぞれの持ち場立場でしてゆきたいと思います。主が再び来られるときには、「よくやった」と言っていただけるために。