苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

多く赦された者

通読箇所 出エジプト35,36章  マタイ25章31−46節

36:2 モーセは、ベツァルエルとオホリアブ、および、【主】が知恵を授けられた、心に知恵のある者すべて、すなわち感動して、進み出てその仕事をしたいと思う者すべてを、呼び寄せた。 36:3 彼らは、聖所の奉仕の仕事をするためにイスラエル人が持って来たすべての奉納物をモーセから受け取った。しかしイスラエル人は、なおも朝ごとに、進んでささげるささげ物を彼のところに持って来た。
36:4 そこで、聖所のすべての仕事をしていた、知恵のある者はみな、それぞれ自分たちがしていた仕事から離れてやって来て、 36:5 モーセに告げて言った。「民は幾たびも、持って来ています。【主】がせよと命じられた仕事のために、あり余る奉仕です。」
36:6 それでモーセは命じて、宿営中にふれさせて言った。「男も女も、もはや聖所の奉納物のための仕事をしないように。」こうして、民は持って来ることをやめた。 36:7 手持ちの材料は、すべての仕事をするのに十分であり、あり余るほどであった。(出エジプト36章)

 イスラエルの民は神が彼らのうちにご臨在を表し、彼らとともに住んでくださるという施設、いわゆる神の幕屋を造ってくださると知り、感動してそれぞれの奉納物を携えてきた。ひとたびは、彼らが金の子牛をつくってこれを偶像として拝むという罪を犯したために、契約が破棄されてそのあかしとして十戒の石の板が割られてしまったので、もはや自分たちは荒野に見捨てられてしまうのではないかと思った。だけに、主なる神が忍耐して思い直して、もうひとたび十戒の石板を刻みなおしてくださったことに特に感動したのであろう。「罪が増し加わるところに、恵みが満ち溢れた」という実感だろう。その感動が、多くのささげものとして表現された。
 「多く赦された者は多く愛するのです」と主イエスは言われた。多く罪赦されたわたしが、多く主を愛するのはあたりまえのことなのだ。