苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

人の時、神の時

2:23 それから何年もたって、エジプトの王は死んだ。イスラエル人は労役にうめき、わめいた。彼らの労役の叫びは神に届いた。 2:24 神は彼らの嘆きを聞かれ、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。 2:25 神はイスラエル人をご覧になった。神はみこころを留められた。(出エジプト2:23−25)

 神の不思議な導きで幼い日から「エジプトの女王」のもとで育てられたモーセは、40歳ほどのとき、同胞救出のために義侠心に燃えて立ち上がった。しかし、同胞に受け入れられず、シナイ半島の向こうアカバ湾の東側アラビア半島の西端ミデヤン荒野に逃れ、そこで不思議な祭司レウエルと出会い、「モーセは思い切ってこの人と住むようにした」とある。もう二度とエジプトに戻る日はあるまいと考え、ミデヤンの荒野の人になる決心をしたのである。
 それから40年間エジプト王のイスラエル同胞に対する圧迫は延々と続いたが、その40年間のことは何一つ記されていない。空白である。こういう空白の期間というのが、聖書にはときどきある。40年後苦しみの中でイスラエルは主を叫び求め、主はその声を聴かれた。
 モーセにとっても、当たり前だが、すでに40年の歳月が流れていた。モーセとしては自分は荒野の羊飼いとして、この砂漠で朽ちていくのだと思っていた。神が今がその時だとおっしゃったとき、立ち上がることができなかった。しかし、主の時が来て、齢八十にもなったモーセは立ち上がることになる。若い日のようなはやるものはない。ただ、神の召しゆえに。
 人が、気持ちはやらせて「今がその時だ」と決断する時と、神の時は往々にしてずれている。