苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

マニラの悲劇

 明仁天皇ご夫妻がフィリピンを訪問された。文屋善明引退司祭の文章を引用しておく。

 昨日、天皇陛下ご夫妻が、フィリピンの無名兵士の墓に花束を捧げて慰霊された。そのことをフィリピンの人々は大変喜んだとのことである。
 実は、私たちは、あまりにもフィリピンにおける日本軍がおかした残忍な行為を知らなすぎる。私自身もその一人である。
 昨日、紹介した、伊藤利行氏の記事の中で、『マニラの悲劇』のことに触れられている。ここにその部分だけを取り出して、再掲載しておく。これは「南京大虐殺」と同じように日本人の記憶に留めておくべき「マニラの大虐殺」である。


永井隆の『長崎の鐘』(昭和24年)には、連合国軍が刊行条件として特別附録『マニラの悲劇』を合本とすることが命じられていた。モニカ・ブラウン『検閲 1945-1949 禁じられた原爆報道』(1988)によると、原子爆弾は日本の戦争機構の野蛮な行為に報復するために使用されたのであって、検閲官は「アメリカの軍事行為が説明される際には(原子爆撃の場合のように)、挑発ないし誘因であった日本の軍事行為も例示されなければならないであろう」と述べている。

『マニラの悲劇』は、120頁を超えるもので引用はできないが、数枚の写真があり、キャプションには次のようなことが記されている。簡単に言えば、非戦闘員への虐殺行為である。

「約三十個から成る屍體の集團が、内径15フィート四方の小さな石造の建物内で發見された。……彼等は凡そ二週間前にここへ移され、食物も水も與えられずに放置されていたのである。……屍體は燒かれ、或は干乾びていたため、その傷が銃劍によるものか、銃彈によるものか、或は砲彈の破片によるものかを判別することは困難であった。」

「『フイリッピン人ヲ殺スニ當リテハ、彼等ヲ一個所ニ集メ、彈薬ト人力トヲ浪費セザルヨウ留意ノ上處置スベシ。屍體ノ後始末ハ困難多キ作業ナレバ、ソレラヲ建物内ニ収容シ、後コノ建物ヲ燒拂イ又ハ破壞スルカ,モシクハ屍體ヲ河中ニ投入スベシ。』一九四五年二月十三日 1200 日本軍大隊命令」

「一九四五年三月二日、SWPA-通信班-四五-一三一六〇。エレナ マルドンダ夫人。彼女は銃劍で剌された他の婦人たちを救おうとして、同じく背部を剌され、かつ機銃で射たれた 現在マニラ市エル ミー夕に居住している。(フイリツピン島マニラ市サント トマス。)

「これらの重い鐵扉がこじ開けられた瞬間、腐臭が俄かに襲つてきた。およそ二、三百の屍體が、通常の家の寝室ほどの大きさの、鐵棒で仕切られた区画の中に積み重ねてあつたのである……。」

日本兵は銃劍を構えて突進し來り、幼児の頭を刺し貫いた。幼児の母は思わず大聲を挙げた。すると兵士は銃口を開き、彼女を卽座に射殺した。」

 ちなみにフィリピンでの日本軍以前の虐殺といえば、ダグラス・マッカーサーの父アーサー・マッカーサーの時代のフィリピン人虐殺がある。彼はフィリピン駐留アメリカ軍司令官であった。
 フィリピンはもとスペイン領だったが、米西戦争で米国が奪い取った。米西戦争のとき米国は、スペインに対する独立革命をしていたアギナルド独立軍に協力を求めておきながら、その後、独立軍に対する虐殺行為をしている。アギナルド独立軍は、米国の独立宣言を掲げて、対スペイン独立革命をしていたのである。

1896年以来、カティプナンのフィリピン人たちは、スペインからの独立(フィリピン独立革命)のために戦ってきた。1898年5月1日に米西戦争の戦闘のひとつ、マニラ湾海戦でスペイン軍が敗北した。アメリカはフィリピン独立運動の指導者エミリオ・アギナルドに勝利の暁に独立させると約束して背後からスペイン軍を襲わせた。しかし、スペイン降伏後アメリカは、フィリピン独立の約束を反故にして植民地にし、アギナルド率いる独立軍1万8千人の掃討を始めた。米上院に報告された数字では米軍は1902年までの4年間で20万人を殺害した。(Wikipedia「米比戦争」より)

 フィリピンが日本を非難するのは当然の権利である。だが、米国が日本を非難するのは、目くそ鼻くそを嗤うの類。また、先の日本の戦争を「アジア解放戦争、フィリピン解放戦争だった」という日本人は、あまりにもあつかましい。「盗人にも三分の理」と言いたいのか。