苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

王の足跡に従う

マタイ27.27−32
2015年10月25日 

 それから、総督の兵士たちは、イエスを官邸の中に連れて行って、イエスの回りに全部隊を集めた。そして、イエスの着物を脱がせて、緋色の上着を着せた。それから、いばらで冠を編み、頭にかぶらせ、右手に葦を持たせた。そして、彼らはイエスの前にひざまずいて、からかって言った。「ユダヤ人の王さま。ばんざい。」 また彼らはイエスにつばきをかけ、葦を取り上げてイエスの頭をたたいた。
こんなふうに、イエスをからかったあげく、その着物を脱がせて、もとの着物を着せ、十字架につけるために連れ出した。
 そして、彼らが出て行くと、シモンというクレネ人を見つけたので、彼らは、この人にイエスの十字架を、むりやりに背負わせた。

1.気高い自由な王

ローマ総督ピラトがイエスに有罪判決を言い渡すと、総督の兵士たちはイエスを官邸に連れ込みます。すると、その中庭に兵士たち全員ぞろぞろとイエスの周りを取り囲みました。彼らは、この餌食をなぶりものにしてやろうとニヤニヤと残忍な笑みを浮かべています。この後、兵士たちはイエス様に対する振る舞いは何を意味しているのでしょうか。
 彼らはイエスの着物を脱がせて、緋色(深紅、赤い)外套を着せ掛けました。ローマ兵のマントなのでしょうか? 次に、そこいらに生えていた荊を輪にして、イエスの頭に王冠として押し付けました。主の額から幾筋もの血が滴り落ちました。王の杖としては葦の棒を持たせられます。
緋色のマント、荊の冠、右手に王の杖は、王としてのいでたちでした。そうして、おどけてイエスの前にひざまづいて「ユダヤ人の王さま、ばんざい!」と彼らはイエスを侮辱したのです。そうして、さらにイエスにペッとつばきを吐きかけ、王の杖である葦を取り上げて、イエスの頭を何度もたたいたのでした。

兵士たちはなぜ主イエスにこんな侮辱をしたのでしょうか?ユダヤのサンヒドリンがイエスを訴えた罪状は、「イエスユダヤ人の王を名乗り、民を煽動して、ローマ皇帝にたて突いた」ということであったからです。十字架でイエス様の頭上に掲げられた罪状書きにも「ユダヤ人の王」と記されました。聖画でときどき見かけるINRIというのは、「IESUS NAZARENUS REX IUDAEORUMナザレのイエスユダヤ人の王」の頭文字です。敵になんの抵抗もせず、むざむざと捕まえられてなぶられっぱなしで、王と名乗っているイエスを侮蔑したのです。軍事力で世界を手中に収めたローマ人の価値観は、「力こそ正義である」というものでしたから、彼らからすれば、無抵抗を貫くイエスが王と名乗るのはちゃんちゃらおかしいことだったのです。

「力こそ正義」という世界では、暴力に対しては暴力を報い、怒りに対しては怒りをもって報い、憎しみに対しては憎しみをもって報いるというのが、常識です。しかし、そこには必ず絶えることのない憎しみの連鎖が生じます。国と国の間でも、民族と民族の間でも、仕返しに対して仕返しをする、すると、その仕返しに対してさらに仕返しをし、そのまた仕返しに対して仕返しをして、その連鎖はやむことがながありません。しかも、その連鎖は世代を超えて子々孫々にまでつながっていくのです。背後で国々の政府をあやつってにやにやとしている黒幕は死の商人たちであり、霊的な黒幕を言えば悪魔です。
 これは国と国の間だけでなく、私たちの社会生活、家庭生活でも同じことです。夫にひどいことを言われたら、それに倍のことばで仕返しをする。すると、それに対してまた夫からの意地悪が返ってきて、エスカレートして行き、ひどくすると殺人が起こってきます。背後で喜んでいるのは悪魔です。
主イエスは、まったく違う道を選びました。それは主イエスの精神が自由であったからです。私たちが他人から意地悪をされれば、相手を憎んでしまう、その時、私たちは相手にコントロールされ、悪魔に支配されている奴隷なのです。しかし、主イエスは自由な王でしたから、相手がつばをはきかけ、こぶしで殴りつけ、足の棒でなぶっても、相手を憎まず愛すること、赦すことが出来たのです。悪魔も、主イエスをコントロールすることができないのです。奴隷とは不自由な者で、自分で自分をコントロールできないものです。これに対して、王とは自由な存在です。誰に支配されることもなく、自分の主体的な意志で自分の行動を選ぶことができる。それが王です。主イエスは、真に自由な王でした。
荊の冠を押し付けられて額から血を流し、葦の王杖を持ち、コブシで殴りつけられ、つばを吐きかけられた主イエス。しかし、その主イエスの心は憎しみに囚われることなく、父なる神を見上げ、敵を愛していらっしゃいました。主イエスは罵られても、罵り返さず、苦しめられても脅すことをせず、いっさいを天の父にゆだねていました。これこそ、気高い、自由な王としてのキリストの姿でした。

 キリスト教の歴史に起こった十字軍、インディアス破壊、合衆国のアメリカ先住民のせん滅的政策、ベトナム戦争などの出来事を振り返ると、キリストが王であることの意味をキリスト教会はひどく誤解してきたのではないかと思います。

2 クレネ人シモン・・・キリストの足跡にしたがう

(1)無理やりに十字架を背負わされて
ピラトはイエスユダヤ人たちに引き渡す前に、兵士たちにひどく鞭打たせましたから、イエスの背中の皮膚は破れてしまい、主イエスは相当に憔悴していました。そのイエスの血まみれの背中に兵士たちは、はりつけにするための十字架を背負わせます。十字架を担う主イエスは、エルサレム城外のゴルゴタの丘への道を進んで行かれます。石畳の、両側に家並みが迫るだらだらとした坂道です。一歩一歩進んでゆく道の両側に、野次馬がずらりと並んでいて罵声を浴びせかけます。過越しの祭りの時期ですから、エルサレムには人があふれていました。
 その野次馬の中にクレネ、今日で言う北アフリカリビアから、やってきた1人の巡礼がいました。名はシモンと言いました。彼はエルサレム神殿に詣でるために、一張羅に着替えて神殿に向かおうとしていたのですが、ゴルゴタに引かれていく囚人たちが通る道のところで足止めになっていたのでしょう。すると、シモンの前に十字架を背負った囚人がゆっくり歩いてきたのですが、その男だけは頭に荊の冠をかぶせられていて、しかも、他の囚人に比べるとずいぶん憔悴しています。そして、彼の目の前でばたりとつまずいて、重い十字架がドスンとその囚人の上にのしかかったのです。ローマ兵がその囚人に駆け寄って、鞭打って「立て!立ち上がれ!」と罵り、群衆たちがも嘲りますが、どうしても立ち上がることができません。ローマ兵はあたりをぐるりと見回すと、気の毒そうに眺めているシモンを指差すと命じます。
「おい。お前が、イエスの十字架を運んでやれ!」
例の、ローマ人は植民地人を任意に1ミリオン使役して荷物を運ばせることができるという法律によって、命じたということでしょう。シモンはもちろん抵抗しました。しかし、ローマ兵たちに無理やりにイエスの十字架を背負わされてしまいます。

27:32 そして、彼らが出て行くと、シモンというクレネ人を見つけたので、彼らは、この人にイエスの十字架を、むりやりに背負わせた。

 シモンは決して自ら進んでではなく、いやいやイエスの十字架を処刑場にまで運ぶ役を担うことになったのでした。ずっしりと背中に負わせられた血まみれの十字架に、せっかくの晴れ着もイエスの血にまみれてしまいました。シモンは泣き出したい気持ちだったでしょう。けれども、前を一歩一歩進んでいく主イエスの足跡に、自分の足跡を重ねて、彼はゴルゴタへと向かって行ったのでした。


(2)クレネ人シモンのその後
 考えてみれば不思議なことは、イエス様の十字架を背負ってゴルゴタまで運んだ人物の名が、福音書記者によって、きちんと「クレネ人シモン」と記録されているという事実です。この事実は何を意味しているのでしょうか?少し考えれば、わかることですが、後日、クレネ人シモンという名が初代教会の中でよく知られる名前となっていたことを意味しています。つまり、シモンは後日初代教会のメンバーとなって、教会の集いの中で、
「実は、おいらがイエス様の十字架をゴルゴタまで背負って、お手伝いをしたんだよ。」と証しをすることがあったのでしょう。そうでなければ、その名が特筆されるわけがありません。初代教会では、クレネ人シモンさんといえば、イエス様の十字架を背負った男、ということでした。
 アフリカ・リビアのクレネ出身のシモンらしき初代教会の人物をさがすと、その名はまず使徒の働き13章1節に見えます。

13:1 さて、アンテオケには、そこにある教会に、バルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、クレネ人ルキオ、国主ヘロデの乳兄弟マナエン、サウロなどという預言者や教師がいた。

 「ニゲルと呼ばれるシメオン」と呼ばれている人です。ニゲルというのはギリシャ語で「黒い」という意味ですから、アフリカ・リビア出身のシモンの肌が黒かったという意味でしょう。彼はアンテオケ教会における指導者の1人になっていたということがうかがえます。
 さらに、マルコ福音書の並行記事、使徒の働き、手紙をひっくり返してみると、シモンという名が記されています。まずマルコ15:21

「そこへ、アレキサンデルとルポスとの父で、シモンというクレネ人が、いなかから出て来て通りかかったので、彼らはイエスの十字架を、むりやりに彼に背負わせた。」

 シモンは「アレキサンデルとルポスとの父」と紹介されています。アレキサンデルとルポスという兄弟が初代教会の名の知れたメンバーだったからです。ルポスという名は、使徒パウロがローマの教会に宛てた手紙の中に登場します。そこでは

「主にあって選ばれた人ルポスによろしく、また彼と私との母によろしく」(ローマ16:13)

とあります。このところを見ると、使徒パウロは巡回伝道においてルポスのお母さんにずいぶん世話になっていて、ルポスとは兄弟のように親しい間柄になっていたわけです。
 
 こうしてみると、無理やりに主イエスの十字架を負わされたシモンでしたが、この主イエスとの出会いから、彼はキリストへの信仰を与えられ、さらにその信仰は妻に、息子のアレクサンデルとルポスにも伝えられたことがわかります。彼らはみな初代キリスト教会において、一生懸命に福音の宣教のために献身的に協力する人々となっていったことがわかります。


結び
 主イエスは荊の冠をかぶる王でした。その姿は表面的には惨めさのきわみでした。しかし、主イエスこそは、罵られても罵り返さず、憎まれても愛し、悪に対して善を報いる、まことに気高い自由な精神の王だったのです。
 クレネ人シモンは、最初は無理やりに十字架を背負わされました。彼はいやいや、心の中で泣きながらイエスの十字架を背負ったのです。けれども、イエス様の後姿を見て、ゴルゴタに向かって一歩一歩踏みしめて行かれるお姿を見て、ついて行きました。そして、あの十字架につけられながら敵を赦す主イエス祈りを聞いて、彼の心に変化が起こったのでした。このお方は神の御子であられる、という信仰が与えられたのでした。その信仰は妻へ、息子たちへと受け継がれ、シモンの家族は、主の十字架の福音のために奉仕をする祝福された家族となっていったのでしょう。

 クリスチャンであれば、主イエスのために重荷を担うことが求められることが、あるでしょう。そのときは、無理やりに背負わされたものかもしれませんが、十字架へと向かって行かれる主イエスの背中を見つめ、その足跡に自分の足跡を重ねる生き方、神にすべてを委ね敵をも祝福する生き方をするならば、あなたは、そしてあなたの身近な人々もまた、後の日にかならず主の大いなる祝福にあずかることになります。

新聖歌445
「重くともなれが十字架 担い行け笑みもて
 試みにあいし人々 助けうる時あらん
*笑みをたたえて 感謝 抱きて
 十字架を担え 神より報いをば受くべし」