苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

救い主の約束

    創世記3:7,14,15,20,21
    2011年12月18日 アドベントⅣ 小海主日礼拝


 父・子・聖霊の三位一体の神は、その第二の人格である御子がモデルとなられて、最初の人間、アダムとその妻をお造りになりました。人は、それで御子に似た者としての完成を目指して成長していく者となったのです。 けれども、人は蛇サタンの誘惑に陥って、自分は神様なしで生こうと思い上がって、禁断の善悪の知識の木の実を食べてしまいました。人は、神によらず自分で善悪を決めて生きていくことが、人間として立派なことだと思い込むようになりました。ほんとうは日々、生かしてくださっている神様に感謝をささげ、すべての栄光をお返しして生きていくことこそ、人間としてのまともな生き方なのですが。
 神様に背を向けた結果、人は、人間同士の関係においては敵意と恐怖をいだいて孤立するようになりました。かつて全く信頼しあい、受け入れあうことのできた人間は、互いに恐れを感じたり攻撃しあったりするようになって、自分をほんとうの姿は見られまいとして虚勢を張らなければならなくなってしまいました。
また神様に背を向けた結果、被造物までも人に敵対するようになりました。土の中には役に立つ微生物もおれば有害な病原菌もいるようになり、植物のなかにも毒をもつ植物がいるようになり、動物たちの中にも人間を襲う動物たちが出現しました。このように、神様との関係を人間が壊してしまった結果、人は対人関係においても孤立してしまい、対被造物関係においても、不調和のなかに自分を置くようになってしまったのでした。

1 自分自身との不調和「裸を恥じる」

 対神、対人、対被造物という三つの関係を見ましたが、人間は、もうひとつの関係のうちに置かれています。それは自分自身との関係です。人間というのは、自分のことを意識して、自分のことをいやな奴だなとか、自分はいい奴だなとか思って生活しています。そうして、これから自分はどのようにして生きていくかということを選び取って行こうとします。昔こういう人間の特徴をとらえて、人間は対自的存在だといった哲学者がいました。
 善悪の知識の木から盗って食べたとき、アダムと妻とは、自分が裸であることに気が付いて恥ずかしく思うようになりました。彼らはもともと裸でしたし、彼らの目が見えなかったわけでもありませんが、恥ずかしくなかったし、恥じる必要がありませんでした。彼らは、あの木の実を食べてしまった口を恥ずかしく思ったのではありません。もし口を恥じたならマスクをしたでしょう。実際には、腰を隠しました。性器を隠したのです。
 なぜ性器を隠したのか?アウグスティヌスは説明しています。神に背く前、神様の恵みによって、人間の精神と肉体は、意志のコントロールの下にありましたが、神に背いたとき、人間をおおっていた神の恵みが取り去られて、肉体は精神と意志に反抗して勝手にふるまうようになってしまった、と。つまり、人間が正常な状態にあったときは、彼らは自分の意志で肉体をちゃんとコントロールして用いることができたのだけれど、神様に背いて神様からの力を失ったとき、彼らは自分の肉体をコントロールすることができなくなってしまったのです。そのことがみっともないことだと感じて、アダムとその妻は、自分の裸を恥じたのでした。性欲がコントロールできないというのは、悲惨なことです。旧約時代における偉大な王といえばダビデとソロモンですが、彼らは性欲の問題で大きな罪を犯し、かつ国家にも混乱を招いています。
 性欲に典型的に現れますが、性欲の問題にかぎらず、人は自分で自分のことをちゃんとコントロールできなくなってしまいました。使徒パウロは「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。」「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」(ローマ7:15、24)と痛切な叫びを上げているでしょう。それは、私たちにとって決して他人事ではありません。
ある特定の罪や誘惑に関しては、自分で自分をどうすることもできない。自分との関係がうまく行っていない、そういう自分が嫌いだ、受け入れられないということがあるものです。造り主である神様に背を向けた結果、神様が自分のことを愛してくださり、たいせつに思っていてくださることがわからなくなってしまったために、人は自分自身との関係においてもとても不幸な状態に陥ってしまっています。自分の存在価値がわからないのです。
 神様との関係を自ら壊すと、自分自身ともうまく行かず、さらに隣人ともうまく行かなくなり、被造物とも不調和な関係に陥って孤立してしまった惨めな人間。神様は、そういう状況に陥ったアダムと妻に対して、救い主の約束を与えてくださいました。それが本日読んだ創世記第三章のふたつの箇所です。

2 女の子孫

 へびは女を誘惑し、女は夫を誘惑し、彼らはまんまとサタンの術中にはまってしまいました。主は、へびに対するのろいを語られるなかで、救い主の約束を語られます。

「 神である【主】は蛇に仰せられた。
『おまえが、こんな事をしたので、おまえは、あらゆる家畜、あらゆる野の獣よりものろわれる。おまえは、一生、腹ばいで歩き、ちりを食べなければならない。わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。』」(創世記3:14,15)

 この聖書の個所から、こののろいを受ける前にはへびには足があったのだという解釈をする人たちがいて、昔の絵の中には足が四本あるへびが女を誘惑している場面が描かれていたりします。そのように解釈することもおもしろいし不可能ではないと思いますが、必ずしもそのように理解しないでもよいでしょう。つまり、もともとへびというものは足がなくて地面を這いまわるように造られていたのだけれど、そのことに呪いの意味を加えられたというに理解すればよいのです。聖餐式においてパンがイエス様のからだ、ぶどう液がイエス様の血潮を表しているというふうに意味付けがされたのと同じです。
 続いて主がへびに言われたことばの中に「女の子孫」ということばが出てきます。そして、その「女の子孫」は、「へびの頭」を踏み砕き「へび」は「女の子孫」のかかとに噛み付くというのです。「へび」というのは悪魔を意味しています、そして、その頭を踏み砕く「女の子孫」とは、キリストのことを意味していることが、この後に展開された救いの歴史を見るときにわかります。
 悪魔はキリストのかかとに噛み付いてしてやったりと喜んだ次の瞬間、キリストのかかとによってその頭を踏み砕かれるという、その出来事とはなんでしょうか。それはイエス・キリストが十字架にかけられたという出来事です。イエス様は十二人の弟子たちとともにイスラエルの国を3年間伝道してまわられました。ですが、その十二人のうちの一人に悪魔は自分の手下を紛れ込ませていました。その名はイスカリオテ・ユダ。ユダは弟子団の会計係をしていて、おりおりお金をくすねているというお金にきたない男でした。ある出来事を通して、ユダはイエスに憎しみを抱いて、イエスを亡き者にすることをねらっていた祭司・律法学者のもとに走り金を受け取って、イエスを売ったのでした。ユダの心には悪魔が入っていました。そうして、イエス様はゲツセマネの園で敵の手に渡され、不当な裁判の後に十字架に磔にされたのでした。
 悪魔はこの世界に尊い神の御子イエスさまが人となってこられたときから、ずっとイエスを殺してしまおうとつけねらっていましたが、ついにあの十字架の上で辱めのうちに殺してしまうことができましたから、快哉の叫びをあげたにちがいありません。御子が十字架につけられて、復活前の二日間、悪魔は悪しき天使どもや悪霊どもといっしょに祝宴をしていたでしょう。
 しかし、十字架の出来事から三日目の朝、御子イエスは死者の中からよみがえりました。それは私たちのすべての罪に対する報いとしての死を死んでしまわれたことの証でした。キリストの死によって、私たちの罪ののろいは取り去られたのです。しかも、なんと悪魔は、人類の救いのために手伝いをさせられていたのでした。ごくろうさんなことです。悪魔は歯軋りしたに違いありません。こうして、「へびは女のすえのかかとに噛み付き、へびの頭は踏み砕かれる」という創世記の預言は成就したのでした。
 クリスマスの賛美歌に「もろびとこぞりて」があります。その第二節に「悪魔のひとやを打ち砕きてとりこを放つと主はきませり」とあります。「ひとや」というのは牢獄という意味です。イエス様は悪魔の牢獄を打ち砕いて、悪魔のとりこになっている私たち人間を解放してくださったのです。イエス様はそのためにこの世に来られました。
 イエス様を信じるまで自分は悪魔のとりこになっていたということはあまり意識しないという人が多いかもしれません。けれども、聖書を読むと悪魔が上手に人を自分のとりこにしていたとあります。「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」(エペソ2:1-3)「空中の権をもつ支配者」とは悪魔のことです。罪を犯し、真の神様のことなどどこ吹く風で、この世の流れに流されて、神様に感謝も礼拝もしないで、ただ自分のしたいこと、自己実現のみを自分の目的として生きていたとすれば、それこそ悪魔のとりこになっていたことなのです。悪魔の虜、自我の奴隷だったのです。
 人を憎んだり、人を恨んだりして生きている生き方、それは悪魔の虜になっているのです。また、本来人間は被造物を正しく支配し管理すべき者であるのに、被造物の奴隷になってしまっているとしたら、それも悪魔の虜になっていることです。金銭の奴隷になってしまったり、アルコールの奴隷になってしまったりしているとしたら、それもまた悪魔の虜だったのです。しかし、イエス様はあの十字架の死と復活による勝利によって、悪魔を打ち砕いて私たちを暗闇の圧制から救い出してくださいました。

3 血を流して罪をおおう

創世記3章のもうひとつのメシヤ預言は、21節にあります。
 「 神である【主】は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。」(創世記3:21)
 主はへびと女と男にそれぞれ裁きを告げたあと、アダムとその妻エバを園から追放なさるわけですが、それに先立って主御自ら彼らのために皮の衣を作って、彼らに着せてくださったという出来事が記されています。このときはまだ肉食の許されていない時代の出来事でしたから、アダムと妻にとっては動物が殺されることも、その皮で衣が作られることも相当ショッキングな出来事であったに違いありません。
アダムと妻には、あらかじめ善悪の知識の木から盗って食べるなら、あなたはかならず死ぬという警告がなされていました。それにもかかわらず、アダムと妻はただちに死ぬことはありませんでした。殺されたのは、彼らではなく、罪のないいたいけな動物でした。それがどんな動物であったかは書かれていませんけれども、もしかすると傷のない羊の血が流されて、その皮が剥ぎ取られて、衣とされ、アダムと妻に着せられたのではないかと思われます。「私が罪を犯したのに、私ではなく動物がいけにえになって血を流され、私の裸が覆われる」という経験をアダムとその妻はしたのでした。
 また、この皮の衣は、アダムと妻が自分たちで作ったいちじくの葉の腰おおいと対照的なものとして描かれています。いちじくの葉で作った腰おおいは、しばらくすればすぐにしおれてしまい、裸を隠すことはできなくなるでしょうが、獣の皮で作ったものは丈夫です。いちじくの葉で作った腰覆いは、血を流すことなく、人間が作ったものでしたが、皮衣のほうは、動物が人のために殺されて、そして作ったのは主なる神ご自身でした。いちじくの葉の腰覆いが象徴しているのは、人間の自力救済的な営みのことなのでしょう。さまざまな修行をしてみたり、罪の償いとしてお布施をしてみたりして、自分の痛む良心を慰めようごまかそうとしていろいろな宗教的営みがあります。けれども、どんなに修行をしようと、どんなに功徳を積もうと、人は決して神様の前に罪ゆるされたという平安を得ることはできないのです。
 他方、主ご自身が用意してくださった、動物の皮の衣が象徴し、あらかじめ示しているのは、イエス・キリストがあの十字架において成し遂げてくださった、罪の贖いの御業です。私たち人間は、アダムの堕落以来、神に背を向け、人を憎み、神にたくされた被造物を破壊して、罪を犯しています。しかし、主はそんな惨めな私たち人間をあわれんでくださって、ついに2000年前人なってこの世に生まれてくださいました。そして、私たちの罪をことごとく背負って、あの十字架の上で血を流して苦しみぬいて、死んでくださったのです。そのようにして私たちの罪の償いを父なる神の御前において完成してくださいました。ですから、私たちはキリストを信じ、キリストの義の衣を着せていただくことによって、聖なる審判においても、神様の前に立つことができるのです。

結び
 私たち人間は、もともとキリストのかたちに造られたものでありながら、アダムを代表として神様に背いてしまいました。その結果、対人関係には不信と憎しみが入り込み、被造物に対しては敵対関係におちいってしまい、また、被造物を支配する立場でありながら被造物に支配されるような惨めな状態に陥ってしまいました。自分で自分をコントロールすることができないような惨めな状態に人は陥っています。それはまさに悪魔の虜となってしまった状態でした。
けれども、そんな私たちをイエス様はあわれんで、救い主としておいでくださるという約束をあのアダムと妻に与えてくださいました。事実、2000年前にイエス様は処女マリヤから生まれてこの世に「女の子孫」としてきて下さいました。
 イエスさまを受け入れるなら、まず人は神様との交わりを回復されます。神様に赦され、神様に愛されていることを知るのです。そうすると、自分との関係が変わります。今まで自分は無価値だと思い込んでいたのに、神様が愛してくださっていると知ったのですから。そして、隣人との関係にも変化が起こってきます。隣人もまた神のかたちとして造られた尊い存在であることを知るからです。そして、被造物との関係としては、自分の仕事の意味をさとることにもなりましょう。
 このように、女の子孫としてこられ、わたしたちの罪の贖いのために十字架で血を流してくださったイエス・キリストに賛美をささげましょう。