マタイ25:14−30、1コリント13:1-3
私たちは、主の再臨をお迎えするとき、主の前で今の世における人生の収支報告をすべきときがやってきます。そうして新しい人生が再スタートすることになります。 この件について、主イエスはもう一つの譬えを話されました。タラントの譬えです。
1.主はそれぞれにタラントを託された
25:14 天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。
25:15 彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。
旅に出かけて行く主人というのは、主イエスのことを意味しています。主イエスは、十字架と復活によって、わたしたちの罪の贖いを成し遂げられた後、天の父なる神のもとに帰って行かれ、今は父なる神の右の座にいらっしゃいます。そうして、後の日に帰ってこられます。
主人は旅に出かけるにあたって、三人のしもべたちに自分の財産を預けて管理をゆだねます。ある人には5タラント、ある人に2タラント、ある人に1タラントというふうに。タラントということばは、今日では芸能人たちの呼び方として「タレント」ということばとして用いられていますが、もともとは古代イスラエルにおける通貨の単位でした。1タラントは6000デナリで、1デナリは労働者の一日の賃金ということですから、仮に時給1000円として計算すると、4800万円という大金です。したがって、2タラントは9600万円。5タラントは2億4000万円にあたります。この主人は帰ってきたとき、「あなたはわずかなものに忠実だったから」と言っていますから、ずいぶんなお金もちなのです。そりゃそうです、天地万物の創造主ですからね。そういうわけですから、「1タラントの人はちょっぴりしか託してもらえなくて、ひがんでまじめにやらなかったのではないか?」などという推測はあたりません。
タラントは、イエス様が私たちに託された、「賜物」であるということが出来ましょう。イエス様が1タラントということを言われたのは、私たちひとりひとりに期待して、主が託されるものは異なるけれども、それぞれ主が託してくださった賜物はたいへん豊かなものなのだ、ということです。
私たちは主から託された賜物が違うのですから、他の人をうらやんで劣等感を持つ必要はないし、また、自分がたくさん託されている場合には他の人より自分が偉いのだと思うのも愚かしいことです。むしろ、自分に託された多い人は、その分、責任も重いのだということをわきまえねばなりません。
では、主があなたに託されたタラント・賜物とはなんでしょうか。先ほど読んだ1コリント13章の前のほうに出てくる、異言、預言、奇跡を呼ぶ強い信仰、慈善、殉教と言ったのは賜物です。ローマ書12章には、奉仕の賜物、教える賜物、励ます賜物、指導力といった賜物が書かれています。超自然的なもであれ、自然的なものであれ、神様から託された能力は賜物です。もっと身近なことを言えば、ピアノが弾けるとか、人のために喜んで料理が作れるとか、お掃除が得意とか、お金がたくさんある、英語ができるとか、声が大きいとか、笑顔が素敵とか、なんでもよきものは賜物なのです。
三浦綾子さんは病気のデパートのようなからだでしたが、あるとき、与えられた大病が主に託されたタラントであることに気づいたそうです。気づかなければ、毒のある不平ばかり言って周囲の人々をつまづかせて終わりだったでしょう。でも、この病気はタラントなんだと気づいて、そのことを文章に書かれました。そのことによって、どれほど多くの人々が励ましと慰めを受けたことでしょう。
こうしてみると、神様があなたを創造し、この世界に置かれた以上、あなたの存在そのものがタラントなのです。
2.2タラント、5タラントの僕の行動と主人のことば
25:16 五タラント預かった者は、すぐに行って、それで商売をして、さらに五タラントもうけた。 25:17 同様に、二タラント預かった者も、さらに二タラントもうけた。
25:18 ところが、一タラント預かった者は、出て行くと、地を掘って、その主人の金を隠した。 25:19 さて、よほどたってから、しもべたちの主人が帰って来て、彼らと清算をした。 25:20 すると、五タラント預かった者が来て、もう五タラント差し出して言った。『ご主人さま。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください。私はさらに五タラントもうけました。』
25:21 その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』 25:22 二タラントの者も来て言った。『ご主人さま。私は二タラント預かりましたが、ご覧ください。さらに二タラントもうけました。』
25:23 その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
5タラントの僕と2タラントの僕は、二人とも、忠実に、大胆にのびのびとそして熱心に活用しました。その結果、5タラントの人はさらに5タラント、2タラントの人はさらに2タラントもうけることができました。彼らは、主人に信頼されてこれほどの大金を託してくださったことを光栄に感じて、主人の期待に応えて、一生懸命にやったのでしょう。彼らは主人のことを愛していました。これが肝心です。
やがて主人が帰ってきました。このときの主人のことばから、主イエスのお心についていくつかのことがわかるでしょう。第一は、2タラントのしもべについても、5タラントのしもべについても、主人のほめることばは全く同じだという点です。人間の主人であれば、きっと5タラントもうけてくれた僕のほうを、2タラント儲けてくれた僕よりもほめちぎるのではないでしょうか。この主人はたいそうなお金持ちなので、稼いだ財産の多寡にはさして関心がないようです。でもこの主人は、それぞれ託されたものに関して誠実に一生懸命またのびのびと努力をしたことをほめたのですね。彼らが、主を愛してその託されたタラントに応じて努めたからほめたのです。
同じように、主イエスもお戻りになったら、あなたがどれほど主を愛して、タラントに応じてあなたを評価なさいます。託してもいないものについて理不尽なことをおっしゃる方ではありません。託された、富・能力・時間・チャンスなどなどをしっかり自覚して、主のためにお役に立ちたいという、主への愛をもってご奉仕することです。
なにより主を愛する愛が肝心です。どんな賜物も愛がなければ何の役にも立ちません。
「異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいドラや、うるさいシンバルと同じです。また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。」(1コリント13章前半)
異言、預言、強い信仰、慈善、殉教というとなんだかものすごい賜物のようですが、愛がなければ何の役にも立ちません。利己的な欲望や虚栄心や冷たい使命感とかをもってどんなに熱心に賜物を用いて大きな事業をなしたとしても、そんなものは神の前では無価値です。なぜなら神は愛だからです。
私たちはそれぞれ生まれてきた環境も、能力も違うことを思えば、愛と忠実さを基準として裁かれるということは、なんと公正なさばきでしょうと思います。でも、私たちの心のなかを見れば、なんと恐るべきさばきではないかとも思えます。
第二点は、この主人は、「あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。」とおっしゃったことについてです。わたしたちのこの世における営みは、次の世におけることにつながっているのです。この世における奉仕、働きは次の世のための予行演習です。この世での奉仕において、主イエスの信頼を得ることができたら、次の世ではもっと豊かに主から大切な仕事を託していただけます。天の御国は怠け者の国ではありません。働き者の国です。私たちの造り主である父なる神が、「まどろむこともなく眠ることもない」という働き者でいらっしゃいますから(笑)。
3.1タラントのしもべ
ところが1タラント主人に託されたしもべは、主人に報告しました。
25:24 ところが、一タラント預かっていた者も来て、言った。『ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。 25:25 私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です。
なんと残念なことに、第三のしもべは「悪い怠け者のしもべだ」と主人に言われて、その1タラントを取り上げられてしまうことになります。何がこのしもべの問題点だったのでしょうか?能力がなかったのでしょうか? いいえ、そうではありません。
答えは彼の主人に対するセリフのなかによく現れています。彼は、主人にむかって、「あなたは蒔かないところから刈り取る・・・ひどい方だ」と思っていました。彼は「こわくなっ」たのです。このしもべは主人はけちな奴、ひどい奴だと思いこんでいました。主人を恐怖の対象としていたのです。それで、彼は「失敗したらどうしよう。もし失敗したら、主人にどやされて鞭打ちにされてしまうかもしれない。追い出されるかもしれない。」などと臆病になってしまって、失敗しないために、何もしなかったのでした。
これは神様が怖くて仕方がないという奴隷的信者のことを意味しているのでしょう。ローマ書8章に、こういうことばがあります。
「あなたがたは人を再び恐怖に陥れるような奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によってアバ父と呼びます。」
米国から仏教国タイに出かけた宣教師がいました。彼は博士号をもっているたいへん優秀な方でした。けれども、彼はタイに赴いてとても熱心に伝道しているようでしたが、しばらくすると、帰国せざるを得なくなってしまいました。彼が後に書いているのですが、「わたしは夜寝ると夢を見ました。夢の中で白い衣を着た人が来ると、その人は『私はあなたのために、こんなに犠牲を払ったのに、あなたはまた失敗したのか』と傷ついた手のひらを見せながら私に向かって怖い表情をするのです。」と。彼はまさに奴隷の霊を受けたような状態で、神は彼にとって恐怖の的でした。ですから、失敗してはならないと思うと怖くなり、病気になってしまったのです。
1タラントのしもべの問題はなんだったのでしょうか。タラントが少なかったことですか?いいえ、1タラントだって1億円を超える賜物です。では、何が問題でしたか。それは、彼が主人を信頼し、主人を愛しておらず、不信感の塊だったことです。彼に必要だったのは、主人の愛をよく知ること、主人の期待をよく知ることでした。
4.主の愛を知ること
私たちが、実りあるキリスト者生活をし、後の日に喜んで主をお迎えするためになによりも大事なことは、主がどれほどに私を赦してくださったのか、そして、どれほど私を赦してくださったのかということをはっきりと知ることです。
まず、そのためには「神様、あなたがどれほど私を愛していてくださるかを教えてください」と祈ることです。これは御心にかなった祈りです。そして、神様のみことばを読みましょう。
「4:9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
4:11 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。」(1ヨハネ4:9-11)
天地万物の主であられるお方が、あなたを愛されました。その愛の余りに、天の栄光を棄てて、地にくだり、人として地上を歩まれ、辛酸をなめてのちに、自ら進んで十字架にかかり十分に苦しんで、あなたの罪をも償って、完了したとおっしゃってその霊を父にゆだねられました。そして、三日目にのろいを受け終わって復活されました。「人がその友のためにいのちを棄てる。これにまさる愛はありません。」主イエスはあなたの友となってくださったのです。
結び
主が自分に注いでくださった愛こそが私達の奉仕としての生涯の原点であり、かつ、原動力です。主の愛を知ってこそ、私たちは、自分を主にささげて何か主のためにしたいと願うようになりました。そのことを決して忘れてはなりません。
今の世の人生は、次の世のための予行演習。予行演習なのだから失敗を恐れてびくびくせず、のびのびとやりましょう。でも、予行演習なのだから、あすにつながることを覚えて、だらだら怠けずにしっかりとやりましょう。
「よくやった。よい忠実なしもべだ。あなたはわずかなものに忠実だったから、わたしはあなたにより多くのものを任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。」