苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ローズンゲン6月16日 子どもたちは主の賜物

(詩127:3)
文語訳:
みよ子輩はヱホバのあたへたまふ嗣業にして
胎の實はその報のたまものなり
口語訳:
見よ、子供たちは神から賜わった嗣業であり、
胎の実は報いの賜物である。
新改訳:
見よ。子どもたちは【主】の賜物、
胎の実は報酬である。
新共同訳:
見よ、子らは主からいただく嗣業。
胎の実りは報い。
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 以前読んだ本に、人間観の変遷が概観されていた。
<中世ヨーロッパの神の似姿としての人間が、近世には精神と機械の統合としての人間となり、近代には精神も人間に還元されて機械としての人間観となった。現代時代は遺伝子情報の束としての人間観となっている。これからは親たちは産院に出かけて遺伝子情報を操作して好みの子どもを得る、そういう時代になっていく>と。人間を機械として見る世界では、人間は自らを生産効率がすべてとして扱われ、人間を情報の束としてみる世界では、やはりそれにふさわしい扱いがされるようになる。
 「人間は機械でしかない」「人間は情報の束でしかない」という科学的還元主義は、一種の思想的偶像崇拝であって、すべての偶像崇拝と同じように、効率・金儲けという目先のご利益を提供するが、長い目で見ると悲惨をもたらす。
 だが、「子どもはつくるものでなく、授かるものだ」ということをクリスチャンになって聖書を読むようになって知った。子どもをなかなか与えられずに悲しみの中にいる夫婦が結婚以来十何年ぶりに子をさずかって、感涙にふるえているのを見て、ほんとうにそうだと思った。
 ひとりの赤ちゃんが教会に生まれると、兄弟姉妹みなが喜びに満たされ、やさしくなるということも、どこの教会でも見られることだろう。
 この科学的合理主義という偶像崇拝の悲惨な時代に、私たちは「子どもたちは主の賜物」ということを、確信をもってあかししていかねばならないのではないか。