詩編116章9節
われは活るものの國にてヱホバの前にあゆまん(文語訳)わたしは生ける者の地で、主のみ前に歩みます。(口語訳)
私は、生ける者の地で、【主】の御前を歩き進もう。(新改訳)
命あるものの地にある限り、わたしは主の御前に歩み続けよう。(新共同訳)
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「 私は主を愛する。【主】は私の声、私の願いを聞いてくださるから。」と始まり、「主は情け深く正しい」という詩篇116篇がイメージさせる主は、なんともやさしいお方である。筆者が洗礼を受けた、神戸の改革長老教会(カベナンター)では、韻律付き詩篇を礼拝讃美としているが、116篇のメロディも「子どもさんびか」のような感じのとてもやさしげなものである。
恐ろしい監視者の前を行進するのは緊張するものであるが、やさしい主の御前(主の顔の前)を歩むのは、安心なことである。その眼差しは、励ましとなる。
「生ける者の地で」とはどういうことか。本篇の詩人は「死の綱がわたしを取り巻き、陰府の苦しみがわたしを捕えた。」(3節)という経験を経て、このように歌っている。この地上の生において、主の前を歩み行こうといっている。
とはいうものの、詩人は死を絶望と思っているわけでもない。「主の聖徒の死はそのみ前において尊い。」(15節)とあるから。
主が生かしてくださるかぎり、この地上の生涯を主の前に歩み、歩むべき道を歩み終えたならば、その死もまた主の目には尊い。