苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ローズンゲン5月2日  バビロンは自滅する

イザヤ49:26

我なんぢを虐ぐるものにその肉をくらはせ
またその血をあたらしき酒のごとくにのませて酔しめん
而して萬民はわがヱホバにして汝をすくふ者なんぢを贖ふもの
ヤコブの全能者なることを知るべし (文語訳)


わたしはあなたをしえたげる者にその肉を食わせ、
その血を新しい酒のように飲ませて酔わせる。
こうして、すべての人はわたしが主であって、
あなたの救主、またあなたのあがない主、
ヤコブの全能者であることを知るようになる」。(口語訳)


わたしは、あなたをしいたげる者に、 彼ら自身の肉を食らわせる。
彼らは甘いぶどう酒に酔うように、 自分自身の血に酔う。
すべての者が、わたしが【主】、あなたの救い主、あなたの贖い主、
ヤコブの力強き者であることを知る。」(新改訳)


あなたを虐げる者に自らの肉を食わせ
新しい酒に酔うように自らの血に酔わせる。
すべて肉なる者は知るようになる、わたしは主、
あなたを救い、あなたを贖う、
ヤコブの力ある者であることを。(新共同訳)
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 翻訳の異同。他の訳がasis「新しい酒」とあるのに、新改訳のみ「甘いぶどう酒」としている点。もうひとつは、他の訳が万民、すべての人、すべての者としているところを、新共同訳のみが「すべて肉なるもの」としている点。これはbasharの直訳で、第一行目にある、虐げる者自身の肉と同じことばであるのが興味深い。basharは人間のことであるから、バビロンは自らの民を食うとも訳せることになる。
 大筋は、神の民を虐げるバビロンに対するさばきが予告され、その出来事を通して世界の「肉」が主を知るということ。バビロンに対するさばきが、面白いというか気持ち悪いというか。自分で自分の肉(民)を食べ、自分で自分の血を飲んで酔っ払って自滅していくというのである。
 ひるがえってエレミヤの預言を思えば、神の民は自らバビロンに対する復讐の剣となろうとしていきり立つ必要はない。むしろ、虐げを自らに向けられた主の杖として受け止めて悔い改め、杖の下にへりくだること。バビロンは得意の絶頂のなかで酔っ払いつつ自ら滅びていく。
 ん〜、いろいろ考えさせられる。