エレミヤ31:38
見よ。その日が来る。──【主】の御告げ──その日、この町は、ハナヌエルのやぐらから隅の門まで、【主】のために建て直される。(新改訳)主は言われる、「見よ、この町が、ハナネルの塔から隅の門まで、主のために再建される時が来る。(口語訳)
ヱホバいひたまふ視よ此邑ハナネルの塔より隅の門までヱホバの爲に建つ日きたらん(文語訳)
見よ、主にささげられたこの都が、ハナンエルの塔から角の門まで再建される日が来る。(新共同訳)
新改訳の「主の御告げ」という挟み込みは、ヘブル語本文の語順通りで、なかなか便利な発明。それに、預言書らしい雰囲気がかもし出される。
多くの訳は「この町が・・・主のために(建てられる)」と連用修飾としているが、新共同訳のみは「主のためにささげられたこの都」と連体修飾としている。 ルという前置詞を新共同は「にささげられた」とまで訳してこの都(町)の修飾語として「主にささげられたこの都」としている。もともとこの都は主のための都、主にささげられた町なのだ、という信仰が現れている表現。英訳ISVはthe city of the Lordとある。
「その日」と訳されるyamimがyomの複数形で、厳密には「その日々」であること。多くの英訳では複数形で表現されている。「再建される日」というと竣工日をイメージさせるけれども、ここはエルサレム再建の日々という一定期間をさすように思われる。実際、エルサレム再建には長い日月と忍耐と苦闘とがあった。
エレミヤはすでに、25:11,12及び29:10でバビロンで「70年間」たつと、捕囚から解放されて再建が始められると告げている。そして、ダニエルはバビロンの地でこの70年の預言を読んで祈っている(ダニエル9:2)。エルサレム再建命令が発せられることについても(同9:25)。
というわけで、下のように訳したらどうかなあ、と思ったりもする。
「見よ。その日々が来る。──主の御告げ──その日々に、主の都は、ハナヌエルのやぐらから隅の門まで建て直される。」