苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ローズンゲン1月18日 主は与え主は取られる

ヨブ記1:21
「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。【主】は与え、【主】は取られる。【主】の御名はほむべきかな。」(新改訳)

「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。
主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」。
(口語訳)

「我裸にて母の胎を出たり 又裸にて彼處に歸らん ヱホバ與へヱホバ取たまふなり ヱホバの御名は讚べきかな 」(文語訳)

「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」(新共同訳)


<感想>
 口語訳のみが「主が与え、主が取られたのだ」と、今回ヨブの身にふりかかった出来事を説明するような過去または現在完了的な訳だが、他の訳は格言的に現在形に訳している。
 長いヨブ記の最初の章に、ヨブのこの信仰告白というか讃美のことばがある。私はまだ教会に通うようになる前の19歳の夏、三浦綾子さんは旧約聖書入門でこのヨブのことばに衝撃を受けて、旧約聖書を買い求めた。ところが驚いた、このあとに延々とヨブ記は続く。たしか浅野順一さんは1章のこの節が結論であるとする。
 だが、聖書読みで知られる説教者のときあかしを聞いた。「私たちもまたヨブのように全てを奪われるという事態に陥ることがあるかもしれない。そのときには、信仰者としては、歯を食いしばってでも、ヨブのような信仰告白と讃美をささげたい。『主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。』と。しかし、その信仰告白は試されることになるのです。」
 二章以降は、その試みである。あの説教を聞いたのがもう三十年以上も前のこと。確かに、その通りだと思う。