苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

日本国憲法の制定過程(その9) 深謀遠慮の首相幣原喜重郎

(3)首相幣原喜重郎の深謀遠慮
 幣原喜重郎の側近であった平野三郎は、昭和39年2月憲法調査会で「幣原先生から聴取した戦争放棄条項等の生まれた事情について」(「幣原先生から聴取した戦争放棄条項等の生まれた事情について」平野三郎氏記 憲法調査会 昭和三十九年二月 http://kenpou2010.web.fc2.com/15-1.hiranobunnsyo.html)という通常「平野文書」と呼ばれる陳述をしている。

「昭和二十六年二月下旬のことである。同年三月十日、先生が急逝される旬日ほど前のことだった」というから、『外交五十年』と並んで、あるいはそれよりさらに最終的な遺言的な意味をもつことばである。ここには、幣原が改正憲法に戦争・戦力放棄条項を入れることにどういう意図をこめたかが示されている。そこには三つの意図があった。

第一の意図は、天皇制の存続である。米国は共産主義に対する防波堤として、天皇制存続を方針としていた。当時、ソ連、オーストラリア、ニュージーランド天皇制の存続に反対していた。ソ連天皇制の存続そのものに反対だったがオーストラリア、ニュージーランド天皇制そのものよりも天皇制存続することによって日本が再び軍国化することを恐れていたのだった。だから、ソ連以外の国々は日本が戦争・戦力放棄をすると宣言すれば、天皇制が存続することに反対する理由がなくなり、天皇制を維持することができる。しかも、幣原は、そもそも明治以後の大元帥としての天皇というのは本来的なものではないのだという見方をしていたから、天皇から政治的軍事的実権を外すことはよいことであると見ていた。
「問 よく分りました。そうしますと憲法は先生の独自の御判断で出来たものですか。一般に信じられているところは、マッカーサー元帥の命令の結果ということになっています。もっとも草案は勧告という形で日本に本に提示された訳ですが、あの勧告に従わなければ天皇の身体も保証できないという恫喝があったのですから事実上命令に外ならなかったと思いますが。
答 そのことは此処だけの話にしておいて貰わねばならないが、実はあの年(昭和二十年)の春から正月にかけ僕は風邪をひいて寝込んだ。僕が決心をしたのはその時である。それに僕には天皇制を維持するという重大な使命があった。元来、第九条のようなことを日本側から言い出すようなことは出来るものではない。まして天皇の問題に至っては尚更である。この二つに密接にからみ合っていた。実に重大な段階であった。
 幸いマッカーサー天皇制を維持する気持ちをもっていた。本国からもその線の命令があり、アメリカの肚は決まっていた。所がアメリカにとって厄介な問題があった。それは豪州やニュージーランドなどが、天皇の問題に関してはソ連に同調する気配を示したことである。これらの国々は日本を極度に恐れていた。日本が再軍備したら大変である。戦争中の日本軍の行動はあまりにも彼らの心胆を寒からしめたから無理もないことであった。日本人は天皇のためなら平気で死んでいく。殊に彼らに与えていた印象は、天皇と戦争の不可分とも言うべき関係であった。これらの国々はソ連への同調によって、対日理事会の評決ではアメリカは孤立する恐れがあった。この情勢の中で、天皇の人間化と戦争放棄を同時に提案することを僕は考えた訳である。
  豪州その他の国々は日本の再軍備化を恐れるのであって、天皇制そのものを問題にしている訳ではない。故に戦争が放棄された上で、単に名目的に天皇が存続するだけなら、戦争の権化としての天皇は消滅するから、彼らの対象とする天皇制は廃止されたと同然である。もともとアメリカ側である豪州その他の諸国は、この案ならばアメリカと歩調を揃え、逆にソ連を孤立させることができる。
  この構想は天皇制を存続すると共に第九条を実現する言わば一石二鳥の名案である。もっとも天皇制存続と言ってもシムボルということになった訳だが、僕はもともと天皇はそうあるべきものと思っていた。元来天皇は権力の座になかったのであり、またなかったからこそ続いていたのだ。もし天皇が権力をもったら、何かの失政があった場合、当然責任問題が起って倒れる。世襲制度である以上、常に偉人ばかりとは限らない。日の丸は日本の象徴であるが、天皇は日の丸の旗を維持する神主のようなものであって、むしろそれが天皇本来の昔に戻ったものであり、その方が天皇のためにも日本のためにも良いと僕は思う。」

 第二に、しかし、天皇から軍事的政治的実権を剥ぎ取ったうえで存続させるということを日本側から発案することは実際的には不可能であった。そんな提案を内閣がすれば、頭に血の上った連中が内閣は国体と祖国を売り渡す売国奴であるという猛反対をすることは目に見えており、大混乱に陥るであろう。そこで、幣原は戦争・戦力放棄をGHQから出させようと考えた。 

 「この考えは僕だけではなかったが、国体に触れることだから、仮にも日本側からこんなことを口にすることは出来なかった。憲法は押しつけられたという形をとった訳であるが、当時の実情としてそういう形でなかったら実際に出来ることではなかった。
 そこで僕はマッカーサーに進言し、命令として出してもらうように決心したのだが、これは実に重大なことであって、一歩誤れば首相自らが国体と祖国の命運を売り渡す国賊行為の汚名を覚悟しなければならぬ。松本君にさえも打ち明けることのできないことである。幸い僕の風邪は肺炎ということで元帥からペニシリンというアメリカの新薬を貰いそれによって全快した。そのお礼ということで僕が元帥を訪問したのである。それは昭和二一年の一月二四日である。その日僕は元帥と二人きりで長い時間話し込んだ。すべてはそこで決まった訳だ。」

 第三の意図は、理想として世界に軍備廃絶による恒久平和をもたらすために自発的戦争放棄国となるという掲げつつ、緊迫の度を増しつつあった資本主義と共産主義の戦場に、日本が米軍の尖兵として引っ張り出され、血を流させられることを未然に防止することであった。この平野証言には次のようにある。

「問 元帥は簡単に承知されたのですか。
答 マッカーサーは非常に困った立場にいたが、僕の案は元帥の立場を打開するものだから、渡りに舟というか、話はうまく行った訳だ。しかし第九条の永久的な規定ということには彼も驚いていたようであった。僕としても軍人である彼が直ぐには賛成しまいと思ったので、その意味のことを初めに言ったが、賢明な元帥は最後には非常に理解して感激した面持ちで僕に握手した程であった。
  元帥が躊躇した大きな理由は、アメリカの侵略に対する将来の考慮と、共産主義者に対する影響の二点であった。それについて僕は言った。 
  日米親善は必ずしも軍事一体化ではない。日本がアメリカの尖兵となることが果たしてアメリカのためであろうか。原子爆弾はやがて他国にも波及するだろう。次の戦争は想像に絶する。世界は亡びるかも知れない。世界が亡びればアメリカも亡びる。問題は今やアメリカでもロシアでも日本でもない。問題は世界である。いかにして世界の運命を切り拓くかである。日本がアメリカと全く同じものになったら誰が世界の運命を切り拓くかである。日本がアメリカと全く同じものになったらだれが世界の運命を切り拓くか。
  好むと好まざるにかかわらず、世界は一つの世界に向って進む外はない。来るべき戦争の終着駅は破滅的悲劇でしかないからである。その悲劇を救う唯一の手段は軍縮であるが、ほとんど不可能とも言うべき軍縮を可能にする突破口は自発的戦争放棄国の出現を期待する以外にないであろう。同時にそのような戦争放棄国の出現もまた空想に近いが、幸か不幸か、日本は今その役割を果たしうる位置にある。歴史の偶然は日本に世界史的任務を受けもつ機会を与えたのである。貴下さえ賛成するなら、現段階における日本の戦争放棄は対外的にも対内的にも承認される可能性がある。歴史の偶然を今こそ利用する秋である。そして日本をして自主的に行動させることが世界を救い、したがってアメリカをも救う唯一つの道ではないか。
  また日本の戦争放棄共産主義者に有利な口実を与えるという危険は実際ありうる。しかしより大きな危険から遠ざかる方が大切であろう。世界はここ当分資本主義と共産主義の宿敵の対決を続けるだろうが、イデオロギーは絶対的に不動のものではない。それを不動のものと考えることが世界を混乱させるのである。未来を約束するものは、たえず新しい思想に向って創造発展していく道だけである。共産主義者は今のところはまだマルクスとレーニンの主義を絶対的真理であるかのごとく考えているが、そのような論理や予言はやがて歴史のかなたに埋没してしまうだろう。現にアメリカの資本主義が共産主義者の理論的攻撃にもかかわらずいささかの動揺も示さないのは、資本主義がそうした理論に先行して自らを創造発展せしめたからである。それと同様に共産主義イデオロギーもいずれ全く変貌してしまうだろう。いずれにせよ、ほんとうの敵はロシアでも共産主義でもない。
 このことはやがてロシア人も気付くだろう。彼らの敵もアメリカでもなく資本主義でもないのである。世界の共通の敵は戦争それ自体である。」

アンダーラインは筆者による。平野文書には、この後続いて、天皇が受け容れた経緯についての問答が記されている。

「問 天皇陛下はどのように考えておかれるのですか。
答 僕は天皇陛下は実に偉い人だと今もしみじみと思っている。マッカーサーの草案をもって天皇の御意見を伺いに行った時、実は陛下に反対されたらどうしようかと内心不安でならなかった。僕は元帥と会うときはいつも二人きりだったが、陛下の時は吉田君にも立ち会ってもらった。しかし心配は無用だった。陛下は言下に、徹底した改革案を作れ、その結果天皇がどうなってもかまわぬ、といわれた。この英断で閣議も納まった。終戦の御前会議の時も陛下の御裁断で日本は救われたと言えるが、憲法も陛下の一言が決したと言ってもよいだろう。もしあのとき天皇が権力に固執されたらどうなっていたか。恐らく今日天皇はなかったであろう。日本人の常識として天皇戦争犯罪人になるというようなことは考えられないであろうが、実際はそんな甘いものではなかった。当初の戦犯リストには冒頭に天皇の名があったのである。それを外してくれたのは元帥であった。だが元帥の草案に天皇が反対されたなら、情勢は一変していたに違いない。天皇は己を捨てて国民を救おうとさらのであったが、それによって天皇制をも救われたのである。天皇は誠に英明であった。
  正直に言って憲法天皇と元帥の聡明と勇断によって出来たと言ってよい。たとえ象徴とは言え,天皇と元帥が一致しなかったら天皇制は存続しなかったろう。危機一髪であったと言えるが、結果において僕は満足している。
 なお念のためだが、君も知っている通り、去年金森君から聞かれた時も僕が断ったように、このいきさつは僕の胸の中だけに留めておかねばならないことだから、その積りでいてくれ給え。」

 ここに登場する「金森君」とは、国立国会図書館長、金森徳次郎(1886−1959)のことである。彼は25年秋、幣原衆議院議長を訪ね、日本国憲法成立の経緯を明らかにするように求めた。だが幣原は「まだその時期ではないようです」と答えて、沈黙を守った。

やがてマッカーサーは、自分が幣原の深謀遠慮にはめられたことに気づいたようである。1950年5月3日憲法記念日、幣原は衆議院議長としてマッカーサーを訪ねている。そのとき同行した衆議院事務総長大池真の手記に次のようにある。

「マックァーサー元帥から次のような発言が出たことを記憶している。『日本国憲法制定に当たり、ミスター幣原は日本は一切の戦力を放棄すると言われたが、私はそれは約五十年間早すぎる議論ではないかというような気がした。しかしこの高邁な理想こそ世界に範を示すものと思って深い敬意を払ったのであるが、今日の世界情勢から見ると、何としても早すぎたような感じがする』
マックァーサー元帥の発言に対し、幣原議長はニガ笑いして聞いておられただけであった。その後間もなく朝鮮事変が起こった。」

 堤堯は言う。「ニガ笑いの意味は何か。英語でいえばgrinである。幣原の心中は、会心のニヤリだったのではないか。平たく言えば、幣原はマックをハメ込んだ。・・・憲法九条はいわば『救国のトリック』だった云々。」(堤堯『昭和の三傑』集英社インターナショナル2004年)
 堤の書は学術書でなく一般書なので、引用などは不正確なところがあるが、その洞察は非常にすぐれていると筆者には思われる。

 以上、まとめておく。マッカーサーと幣原という当事者両名の証言をあえて疑って、9条は幣原由来ではないと主張するのは無理な「ためにする主張」であろう。日本国憲法の三大原理の三つ目、憲法第九条戦争・戦力放棄条項もまた、本質的に国産だと見るのが妥当である。
1946年1月24日に幣原がマッカーサーに戦力放棄についての発案を伝えた。このあと30日に守旧派で国際政治の状況がまったく見えていない自信家の松本委員長による改正案が閣議に配布されているが幣原は沈黙を守っている。そして、2月3日にマッカーサーは件のマッカーサー・ノート三項目を発し、その第二項に戦争・戦力放棄を盛り込んだ。そして、2月8日、松本委員会は松本案をGHQに提出したが、これは当然棚上げにされ、2月10日GHQ草案は完成し、13日に日本政府に提示された。
1946年3月6日、日本政府は戦争放棄、象徴天皇基本的人権などを盛り込んだ「憲法改正草案要綱」を発表したが、同時に、昭和天皇は次の勅語を発している。

「朕曩(さき)ニポツダム宣言ヲ受諾セルニ伴ヒ日本国政治ノ最終ノ形態ハ日本国民ノ自由ニ表明シタル意思ニ依リ決定セラルベキモノナルニ顧ミ日本国民ガ正義ノ自覚ニ依リテ平和ノ生活ヲ享有シ文化ノ向上ヲ希求シ進ンデ戦争ヲ放棄シテ誼ヲ万邦ニ修ムルノ決意ナルヲ念ヒ乃チ国民ノ総意ヲ基調トシ人格の基本的権利ヲ尊重スルノ主義ニ則リ憲法ニ根本的ノ改正ヲ加ヘ以テ国家再建ノ礎ヲ定メムコトヲ庶幾フ(こいねがう)政府当局其レ克ク朕ノ意ヲ体シ必ズ其ノ目的ヲ達成セムコトヲ期セヨ(官報号外)」(アンダーラインは筆者による)

昭和天皇勅語には、ポツダム宣言受諾を法的根拠として、戦争放棄国民主権基本的人権の尊重が表現されている。公文書として、「昭和天皇が、はっきりと「ポツダム宣言の受諾」という言葉を使ったのはこれだけですが、ここには国民主権の原則も戦争放棄基本的人権の尊重も明記され、それが『朕の意思』であると宣言している。」(河上民雄「<河上民雄氏に聞く>「日本国憲法」をいま新しく考える―憲法研究会の「憲法草案要綱」をめぐって―」)昭和天皇はすでに徹底した憲法改定をするように、幣原に指示を与えていた。古関(前掲書pp20−22)はこの勅語を分析して、大急ぎで作られたことを明らかにし、最初の二行つまり「朕・・・顧ミ」の部分は幣原文書によればGHQとの交渉のなかで加えられたことを指摘している。GHQにとって天皇ポツダム宣言の要求する国民主権を自らの意思で履行することを確認するために加える必要があったとしている。その通りであろうが、さりとて勅語の公文書としての意義は変わらない。


結び
 以上のようなわけで、たしかに「日本政府にとって」日本国憲法はGHQによって押し付けられたものであった。しかし、押し付けられたものの骨子は、日本のリベラル派の発案によるところが大きく、それが米国の親日派が開戦直後から用意周到に研究してきた結果としての対日戦後処理政策と一致したものであった。
 日本国憲法の特長は、「国民主権」「基本的人権の尊重」「平和主義」および「象徴天皇」である。日本国憲法の「象徴天皇儀礼天皇)」「国民主権」「基本的人権」は明治期の自由民権運動の思想的指導者植木枝盛を源泉とする鈴木安蔵から出ており、憲法の「平和主義」は戦前平和外交に徹し戦争放棄を理想としていた幣原首相を源泉としている。
 1946年5月27日の毎日新聞憲法に関する世論調査の結果が掲載されているが、象徴天皇制に反対した人は13パーセントにすぎず、85パーセントの人が支持している。当時の日本国民は国民主権となった新憲法を支持していた(伊藤真伊藤真の日本一わかりやすい憲法入門』2009年p60)
 日本国憲法の三大原則は、<国民主権基本的人権の尊重・平和主義>であるが、前の二つの原則は、明治の自由民権運動憲法案(特に植木枝盛)を研究した鈴木安蔵が起草した憲法研究会案が出典であり、第三原則は時の総理大臣幣原喜重郎の発案である。象徴天皇制も内容的には憲法研究会の儀礼天皇と一致している。これらは米国が開戦後まもなくから用意周到に研究・準備してきていた日本の戦後政策にかんする方針と一致した。そこでGHQはこれを相当参考にして、GHQ憲法草案を作成し、これを日本政府が邦訳した。日本国憲法はこういうわけで、その根本的要素については相当程度逆輸入国産品であるということができよう。
 明治以来の歴史の流れを見ると、明治初期の民権論を国権論が押しつぶして軍国主義に暴走して破綻し、戦後、民権論が復活して日本国憲法ができた。しかし、今また、自民党改憲案(2012年4月27日版)は昔の国権論に戻そうとしているわけである。その先に待っているのはまちがいなく戦争である。
 日本は憲法9条の戦争放棄条項のゆえにこそ、米国の世界戦略の戦争に巻き込まれ、その戦争に使役されることなく歩むことができた。実際、憲法9条のなかった韓国はベトナム戦争に延べ35万人の兵士を出させられ、4万人のベトナム人を殺し、5000人の戦死者を出した。もし9条がなければ、日本の青年たちもまた、朝鮮戦争ベトナム戦争湾岸戦争イラク戦争、その他で多くの血を流させられたであろう。
 以上のようなわけで、戦後の歴史を振り返ると、いわゆる自主憲法制定こそ対米追従の奴隷の道であり、日本国憲法こそ自主の道なのであった。自民党憲法改正草案が実現され9条が改変されていくならば、日本は自主の道を行けるのだろうか。かえって、ますます対米従属へと進むことになってしまうのではなかろうか。